学校教育界の病根のひとつは,
思考停止にあるのではないかと考えるようになった。
学校教育界でよく使われるフレーズは,
どれも反論されにくいフレーズである。
それゆえ,思考停止を導きやすい。
以前話題にした「生きる力」にせよ「教育愛」にせよ,
その他いくらでもあげられるが,
それらに疑問を呈する論陣をはると,
あたかも教師失格であるかのような感情的な反応が
寄せられるのは,実に興味深い現象である。
これまで,このブログでは,
そのような学校教育界で所与の前提とされているような事柄に対して,
違った角度から違った認知が可能ではないかという意味の
エントリーをいくつも書き記してきた。
エントリーをいくつも書き記していくうちに,
現在の学校教育に行き詰まりがあるとすれば,
その原因の一つは,
学校教育の所与の前提とされている事柄への問い直しを阻む力が,
学校を取り巻いて,
強く作用しているからに他ならないと考えるようになった。
学校教育を取り巻く者たち,すなわち,教育学者,教育行政,
教育に関心の高い保護者,あるいは教員自身さえもが
問い直しを阻んでいるのである。
そして,この力は,
私の感覚では,21世紀になる前後から
次第に強まってきているように思える。
学校教育そのものは,
見ようによっては,すでに制度疲労を起こしている。
制度疲労を起こしたシステムを維持するためには,
そのシステムを成り立たせている理念を根本から十分吟味し,
そのシステムの本質を見極め,
そして,見極めたその本質をあくまでも維持し,
変更しないことが必要である。
(その吟味の目をもてば,「生きる力」であれ「教育愛」であれ,
本質ではないことが分かるであろう。)
それが無理であれば,
そのときは,システム全体を廃止し,
新しいシステムを構築することである。
脱学校の方向性である。
将来的に,どちらの方向性をとるにせよ,
現在の学校教育界に蔓延している
所与の前提を鵜呑みにしてしまう思考停止の風潮は
はなはだ危険な兆候であると思われる。
思考停止にあるのではないかと考えるようになった。
学校教育界でよく使われるフレーズは,
どれも反論されにくいフレーズである。
それゆえ,思考停止を導きやすい。
以前話題にした「生きる力」にせよ「教育愛」にせよ,
その他いくらでもあげられるが,
それらに疑問を呈する論陣をはると,
あたかも教師失格であるかのような感情的な反応が
寄せられるのは,実に興味深い現象である。
これまで,このブログでは,
そのような学校教育界で所与の前提とされているような事柄に対して,
違った角度から違った認知が可能ではないかという意味の
エントリーをいくつも書き記してきた。
エントリーをいくつも書き記していくうちに,
現在の学校教育に行き詰まりがあるとすれば,
その原因の一つは,
学校教育の所与の前提とされている事柄への問い直しを阻む力が,
学校を取り巻いて,
強く作用しているからに他ならないと考えるようになった。
学校教育を取り巻く者たち,すなわち,教育学者,教育行政,
教育に関心の高い保護者,あるいは教員自身さえもが
問い直しを阻んでいるのである。
そして,この力は,
私の感覚では,21世紀になる前後から
次第に強まってきているように思える。
学校教育そのものは,
見ようによっては,すでに制度疲労を起こしている。
制度疲労を起こしたシステムを維持するためには,
そのシステムを成り立たせている理念を根本から十分吟味し,
そのシステムの本質を見極め,
そして,見極めたその本質をあくまでも維持し,
変更しないことが必要である。
(その吟味の目をもてば,「生きる力」であれ「教育愛」であれ,
本質ではないことが分かるであろう。)
それが無理であれば,
そのときは,システム全体を廃止し,
新しいシステムを構築することである。
脱学校の方向性である。
将来的に,どちらの方向性をとるにせよ,
現在の学校教育界に蔓延している
所与の前提を鵜呑みにしてしまう思考停止の風潮は
はなはだ危険な兆候であると思われる。