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日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

一弦琴「夜開花」を新しい糸で

2010-05-15 13:29:35 | 一弦琴
少し前に、琴糸を作っている「丸三ハシモト」さんの工場を訪れたことを紹介した。その時に買い求めた一弦琴用の太口糸で「須磨」を演奏してみたが、同じ音域でももう少し糸を強く張れれば響きがよりよくなるのではないかと思い、やや細めの糸を作っていただくことにした。ある程度まとまった量を購入するという条件で快く引き受けていただき出来上がりを楽しみにしていたところ、数日前宅急便で届いた。

新しい糸で山田一紫さんの作詞・作曲になる「夜開花」を弾いてみた。私の声の音域に合わせた調弦で、確かに弦の響きに味わいが出てきたような気がする。実は糸の太さを少し変えるだけで、弦の弾き方など工夫が必要だなと思うようになりいろいろと試しているところである。一弦琴自体のサイズを変えない限り、この新しい糸はまさに私向けに作られたように感じるので、よい音を出せるように精進を重ねていくつもりである。



「湯沸かし器事故」をもう一度振り返る

2010-05-13 22:49:03 | 社会・政治
「湯沸かし器事故」で業務上過失致死傷罪に問われたパロマ工業の元社長と元品質管理部長の二人が、それぞれ執行猶予つきの禁固刑の有罪判決を受けた。12日の朝日朝刊第一面の解説記事に『製品そのものの欠陥ではなく、消費者が購入した後の修理業者の不正改造による事故をめぐり、企業トップの刑事責任が問われたのは異例』とあったが、私はこの裁判官が特捜検事なら小沢一郎も鳩山由紀夫もとっくの昔に起訴してくれただろうにと瞬間的に思った。責任の範囲を止めどなく広げる能力をお持ちだからである。

たとえ家庭用品であってもガス器具である以上、生命が危険にさらされる恐れがあることを、国民にあらためて周知させるぐらいの効果はあるだろうが、それは罪人をこのような形で作るのではなく別のまともな手段で行えばよいことである。

このニュースのせいであろう、私の以前のブログ記事へのアクセスが増えた。かれこれ4年前の記事であるので何を書いているのやら気になったので読んで見たが、結構まともなことを言っているようである。危険性のある器具を使うには利用者が頭を働かせないと、と言っているのである。危険性のある器具に100%近い安全性をメーカーに求めようとすれば、製品価格の高騰を招くことは必須で、いままで庶民が気軽に手にすることが出来たものでも高嶺の花になってしまう。頭ををちょっと働かせば危険を避けることが出来るのに、である。4年前の記事のタイトルだけを見ると、いかにもメーカーに肩入れしているようであるが私は意見を変える必要を感じないので、ここにそのままを再掲(時間順)しておく。お目通しいただければ幸甚である。

『パロマ器事故』のどこにメーカー責任があるのか?
『パロマ器事故』に使用者の心得をおもう
理不尽な経産省のパロマに対する回収命令

①で現時点でもしメーカーの製造責任を問うとすれば、『不正改造』を許すような製品を作ったことが悪い、ということになるのだろうかと述べているが、まさかそこまでの判断はするまい、との思いを込めていたのである。ところが朝日新聞の記事によると、『判決は「欠陥」とまでは言わなかったが、簡単に改造できた点で製品自体にも問題があったと認定した』と、その「まさか」に踏み込んだものだから驚いたのである。このことだけは付け加えておきたい。

自分の周りにある危険にどう対処するのか、それを教えるのが親であり教育である。メーカーにまかせることではない。



柿の木が消えた 追記有り

2010-05-12 21:57:50 | Weblog
一軒おいた隣に震災後の更地がかなり長い間残されていたが、市道に面した前半部分に3年ほど前に家が建ち、私道に遮られた後半部分だけが残っていた。ところがこの3月から新築工事が始まって、ここにもようやく家が出来上がろうとしている。隣近所で子どもの声が聞こえるのは3年前に建った家からだけなので、子どものいる家族が入ればまた賑やかになっていいなと思ったが、残念ながら期待はずれに終わった。洩れてきた話では建て主は大手会社勤務の独身男性で、お嫁さんはこれからなんだそうである。そしてさらに残念なことがあった。

私の部屋の出窓に面してiPhoneのコンパスを開くと北西317度と出てくるから、ちょうど北西を向いていることになる。そして真北を見ると裏庭の外に3本の柿の木が重なって見える。正確に言えば見えていた。震災で大きな柿の木が倒れて、その後に新しく育ってきた木だということである。私が目にした頃はかなり大きくなっていて、春先になると幹と枝だけであった木に葉が姿を現し始めて夏には青々と繁り、秋にはたわわに稔った実が色づいてきて、いい熟しかげんになるとその実を突っつきにに来る烏をはじめとするいろんな鳥で賑わい、熟し柿が地面にひしゃげて片付けに手を取られる時が過ぎたかと思うと、木枯らしでいつの間にか木が丸坊主になる。季節の移り変わりのバロメーターのようなもので、窓の外を眺めるのが日課となっている私を楽しませてきてくれた。ところが諸般の事情でこの柿の木を撤去するというのである。庭にゆとりがあれば以前にクロガネモチを移植したように移し替えをお願いすることも出来たのであるが、もはやそのゆとりもなく、ついに昨日その姿を消してしまった。在りし日の柿の木を横から撮ったのが下の写真で、後ろは建築中の家である。


それがこのようにきれいになくなってしまった。淋しい限りである。



追記(5月13日) クロガネモチのその後。 金網を残したままクロガネモチはしっかりと地面に足をおろし、赤い実も結ぶようになった。やはり生命力は旺盛であった。





不様な韓国哨戒艦沈没事件で思うこと

2010-05-10 21:54:00 | Weblog
去る3月26日の午後10時前、韓国海軍哨戒艦「天安」(1200トン)が黄海の軍事境界線近くで爆発を起こし沈没した事件に関して、今日のasahi.comは次のように報じている。

 【ソウル=牧野愛博】韓国哨戒艦の沈没で、金泰栄(キム・テヨン)国防相は10日、国際合同調査団が哨戒艦から採取した火薬が軍事用の高性能爆薬「RDX」(ヘキソーゲン)であることを明らかにした。韓国記者団に語った。金国防相によると、RDXは魚雷製造にも使われる火薬成分だという。金国防相は「魚雷の可能性が高いということだけだ」とも述べ、慎重に原因究明を進める考えを示した。

 また、合同調査団が哨戒艦の切断部分から数個のアルミニウム片を採取し、魚雷の破片かどうか精密に分析していることも明らかにした。
(2010年5月10日16時59分)

哨戒艦が魚雷により撃沈されたということのようであるが、これが公式発表なのだろうか。韓国側の対応が慎重なのはよいとしても歯切れがよくないものだから、韓国では大騒ぎになっているのかも知れないが、隣国にいる私にはその緊張感が伝わってこない。いずれにせよどこからかやって来た魚雷により「天安」が撃沈されたのが事実であるなら、なんとも不様な話である。哨戒艦がどのような軍艦なのか私は知らないが、1200トンという大きさから小型の駆逐艦のようなものだろうか。哨戒とは「新明解」によると『敵襲を警戒すること』である。北朝鮮との境界線近くで哨戒訓練をしていたのであれば、当然最大の警戒態勢に入っていたはずだと思うのに、いかなる探査システムも異常を察知しえなかったのだろうか。撃沈に先立ってどのような兆候があり、艦がどのように対処したのか、その調査結果を待たなければならないが、撃沈されたという事実は哨戒艦がその役目を果たしえなかったことを冷酷に示している。

軍艦としては比較的小さな「天安」がもしかして30ノットを超える速度で航行していたとすれば、それを撃沈した攻撃側のお手並みは鮮やかであるといえよう。いさぎよく負けを認めて負け犬の遠吠えを断念するに如かずである。そう思ってみるとわが国の自衛艦も似たようなものかも知れない。いくら訓練しても所詮は道場剣法で、いざとなると実戦に鍛えられた人斬り剣法の前には手も足も出ないことであろう。どうせ役立たずであるのなら、最初から持たないというのも一つの選択である。

日米安全保障条約というのも哨戒艦と同じようなもので、あるからといってその役割を果たせると決まったものではない。いっそのこと無くしてしまうというのも一つの手である。無くそうとすると、それに一番抵抗する国がその本性を現し、今まで直視することを避けていた現実-占領下にある日本-をわれわれに覚らせることになりそうである。

のど自慢で「勉強しなさい!」と一喝

2010-05-09 23:45:05 | Weblog
日曜日に家に居るときはNHKののど自慢番組を観ながら昼食を摂ることが多い。今日は島根市で行われたが、8年前に連れあいを亡くし4人の子どもを育ててきたという女性が登場した。私の知らない歌だけれど、なかなかしっかりした歌いぶりで鐘三つには至らなかったけれどとてもいい感じだった。会場に長男が来ていることを聞き出した司会者の呼びかけに応えて、会場の後ろの方で小さな男の子がはにかんだ様子で手を振っていた。お子さんになにか言ってあげてくださいといわれて、その女性が会場に響き渡る大声で言ったのが「勉強しなさい!」の一言であった。わっ、これこそ日本の肝っ玉お母さんと嬉しくなり、食事の手を止めて拍手してしまった。

ふつうなら「お母さん、やったよ」というぐらいで終わりなのであるが、このお母さんは違っていた。子どもへの愛情を大勢の観客の面前でそういう形で表したのである。男の子にもその思いが素直に伝わって欲しいと思った。この男の子が長男だということは多分末っ子で、その上の3人は女の子なのであろう。女の中に男が一人、その長男を女手一つで男らしく育てたいとの思いがあって、それが「勉強しなさい!」になったのだろうと勝手に想像したのである。なんて素晴らしいお母さん。頑張れ!とこれは母の日に私からのエールである。

若い世代に読んで欲しい内田樹さんの「基地問題再論」

2010-05-08 23:25:31 | Weblog
普天間基地移設問題に対して鳩山首相が「腹案」を曰くありげにほのめかしていた頃、さては米軍の日本国領土からの完全撤退要求をついに打ち出すこともありうるとばかり、鳩山首相 ついにヤンキーゴーホームを叫ぶとはの一文をしたしめたが、エイプリルフールの4月1日が過ぎるとともに、この期待は夢と消え去ってしまった。その鳩山首相が5月4日、那覇市で記者団に次のように語っているようでは、「日米同盟ありき」からの脱却はとうてい期待できない。

この現在のアメリカ、日米同盟の関係の中で抑止力を維持する必要性というようなことから、国外あるいは県外にすべてを、普天間の機能をですね、移設することは難しいということに至りました。したがって誠に申し訳ないという思いで今日はおうかがいしたんですが、沖縄の県民の皆さま方のご理解をたまわって、やはり沖縄の中に一部、この機能を移設をせざるをえないと。そのようなことに対してご理解をいただけないかということを、仲井真知事に申したところでございます。
(asahij.com 2010年5月4日12時39分)

しかし覚めた目で見れば「日米同盟からの脱却」を総理、民主党政権に期待すること自体が無いものねだりなのであって、なぜなら国民の多くがそれを望んでいないように私には思えるからである。

なぜ国民が「日米同盟からの脱却」を望まないのか、その問題に真っ正面から対峙したのが内田樹さんの「基地問題再論」であるといえよう。ぜひ全文に目を通していただきたいが、その要点だけを引用させていただく。

私は「日本国内にある駐留米軍基地がすべての撤去されること」を求めるのは主権国家として当然の要求であると思っている。

私はとりあえず、「国内に治外法権の外国軍の駐留基地を持つ限り、その国は主権国家としての条件を全うしていない」という一般論についての国民的合意を形成したいと願っている。
それだけである。

実に簡潔明瞭、私はまったく同感である。内田さんが毎日新聞に先日普天間基地問題についてコメントした内容をそのまま採録しているが、その中から少なくとも次の部分に目を向けていただきたい。

普天間問題の根本にあるのは、米国が日本に基地を置いていることのほんとうの意味について私たちが思考停止に陥っているということだ。
米国は日本に基地を置いている理由の一つは日本が米の軍事的属国だということを私たち日本人に思い知らせるためであり、もう一つは、中国、北朝鮮という「仮想敵国」との間に「適度な」緊張関係を維持することによって、米の西太平洋におけるプレザンスを保つためである。
米軍基地はすでにあるものであり、これからもあり続けるものだと私たちはみな思い込んでいるが、米国は90年代にフィリピンのクラーク空軍基地とスービック海軍基地から撤退した。2008年には韓国内の基地を三分の一に縮小し、ソウル近郊の龍山基地を返還することに合意した。いずれも両国民からの強い抗議を承けたものである。
(強調は私)

私は今もアメリカの『占領下』にあるわが祖国日本で、アメリカ軍は日本固有の領土から完全に撤退していただく。言葉を換えれば日本は基地の提供を一切廃止する。『占領軍』の撤退でもって、始めてわが祖国日本は文字通り独立国の体裁を取りうるのであると叫んでいるような男であるので、内田さんのいう私たちはみなの範疇外にあるが、若い世代に日常接している現役の教師である内田さんの実感としての私たちはみなの意味するところは大きいと思う。

もう鳩山首相が普天間基地問題で何をつぶやこうと私はまともに取り上げる気にはならない。しかしこのドタバタを契機としてアメリカ軍は日本固有の領土から完全に撤退すべしの声が、少しずつでも若い世代から揚がって欲しいと思う。でないと、基地問題は永遠に日本の首かせになってしまう。香港ですら99年の租借で解放されたというのに。


深田祐介著「歩調取れ、前へ!」を読んで

2010-05-06 23:33:14 | 読書


「歩調取れ、前へ!」とか「大東亜戦争」とか、昭和一桁生まれには昔懐かしい言葉がこの文庫本の表紙を飾る。手を出してしまった。昭和19年、戦争の只中に暁星中学一年生となった深田祐介氏の少年時代を描く自伝的小説である。

 大東亜戦争の戦局悪化がいわば決定的になったのは昭和十九年だが、その正月を私たち一家は妙高の赤倉観光ホテルで迎え、ちゃんと三食、それもかなり本格的な洋食を食べ、スキーを楽しんでいたという話になると、一世風靡の美男俳優にして、エッセイストの池部良氏なども、
 「あれだけは許せねえな。おれが南方はハルマヘラ島で野草の汁を飲んで生きていたときに、君はステーキを毎日食っていたのか」
 とご機嫌が悪くなる。

これが小説の冒頭である。私などはご機嫌が悪くなるというより、ただ呆気にとられるのであるが、こういう資産階級が日本にもちゃんと存在していたのかと思うと、誇らしげな気分にもなるのがまた不思議である。恒産あれば恒心あり、の高潔な人種を思い浮かべるからであろう。

一口に言って私が好きなゴシップ話がふんだんに出てくる。資産階級ならではのアンテナの張り巡らしようが浮かび上がるのが面白い。さらに主人公が少年であっただけに、その時がたまたま戦争の最中だったという状況下で、雑草が勝手に逞しく育っていくように、少年少女がその時代を正面に見据えて生き抜く姿がが、丹念に語られているのがよい。今夜、たまたまNHKの番組で草食系若者についての議論が交わされていたが、あんなもの戦争がないせいや、とつい言いたくなってしまった。しかしその一方、この本に描かれた次のような場面を思い浮かべると、戦争のあまりの残酷さに軽口をたたくのを躊躇する。

米国の空軍戦略の狡猾なところは、日本側の犠牲者を増やすために、必ず囮機を使ったことだろう。
 これは東京大空襲から広島原爆投下まで一貫していた。いかに一般市民の虐殺を増やすか、という一点から考え出されたもので、その残虐ぶりはほとんど世界戦史に例を見ない。(中略)
 あらかじめ先導機が深川、浅草を中心に隅田川を挟む四地点を最重点目標に選び、先導機がここにナパーム系焼夷弾を投下、次いでこの四地点をつなぐ長方形の火の壁を作った。後続のB29集団はその火の壁の中に集中的に焼夷弾を押し込むように落とし、大虐殺を行ったのである。(194-5ページ)

そして戦後をひたすら生き抜いてきた日本人の姿が続く。草食系若者に朗読して聞かせたくなる。

鳩山由紀夫首相の「巧言令色 鮮矣仁」?

2010-05-04 20:41:11 | 放言
【県民期待との食い違い】

 ――選挙で「最低でも県外」とおっしゃって、県民の期待も高まった。今回、「申し訳ない」「すべて県外は難しい」という発言もあるが、今日の考え、県民の思いに答えられるか。整合性とどうはかるのか。

 「まず、沖縄の県民の皆さんに、こちらにお邪魔をして、いろんなお話を伺いながら、改めて、もっと早く来いというお気持ちも含めて、おわびを申し上げに参りました。その思いが伝わったどうかということになれば、そう簡単に、一度で十分に伝わったとは、思っておりません。それだけに、また皆さん方と意見交換をできるような機会を、これからも持ちたいと思っています」

 「え、自分自身の気持ちと、それから県民のみなさま方のお気持ちの中で、まだ乖離(かいり)があることは認めます。ただ、決して、私は、沖縄の皆さま方に対して、まあ、歴史的にたいへんある意味で屈辱的な状況の中で、例えば基地を、自分たちの土地を接収されて、強引につくられてしまったという歴史的な事実があるかと思っています。そういった思いというものが強くあるだけに、むしろ、そのお気持ちにこたえるために、沖縄の県民の皆さん方のご負担を、少しでも和らげることができないかという一心で、本来ならもう、ある意味で前政権がなさったことなんだからということで、昨年のうちに結論を出してしまえば、あるいはそれで、私は終わった話にはならないと思ってますが、一つの結論は出せたかも知れませんが、私にはとてもそれをやるという思いにはならなかった。それだけに、なかなか県民の皆さん方にご理解をいただけないですが、これからもおわびを含めてお邪魔をして、そして、皆さん方のご理解を少しでも深めていただけるように努力して参りたいと思います」
(asahi.com 2010年5月4日19時6分)

論語學而第一にある「子曰 巧言令色 鮮矣仁」の「巧言令色」とは「ことばたくみに顔色を和らげて、人を喜ばせ、こびへつらうこと」(「全訳 漢辞海」)、または「鳩山由紀夫首相の言葉」(私の注釈)。こういう人に「仁」、すなわち「他者に対するおもいやり、いつくしみ」の心はないものだ、と孔子様がとっくの昔に仰っている。沖縄の人もとっくに気付いていることだろう。いや、「巧言」という以上はすくなくとも多少はそれなりに頭を働かせて作るだろうに、彼の言葉にはその片鱗をうかがわせるものすらない。彼の話は「音」が口から出ているだけで、言葉のようで言葉でないことは上の引用を見れば一目瞭然であろう。こういう人物がわが国の総理大臣でいられるとは摩訶不思議としか言いようがない。早く目の前から消えてくれないかなぁ・・・。電撃的辞任のニュースを心待ちにしている。

みどりの日のマメ談義

2010-05-04 14:11:57 | Weblog
今日は「みどりの日」なんだそうである。似たような名前の家電量販店のコマーシャルではないが、中途半端やなぁ、である。それはともかく朝の水やりの後、今年になってはじめてパラソルを開くことにした。部屋の中より外気に触れるほうが心地よく感じたからである。椅子に腰をかけるとなんだか落ち着いた気になる。一坪菜園で育てた絹さやが私の背よりもはるかに高くなり、手前のそら豆ともども緑の壁になって閉じた空間を作ってくれているからであろう。


昨年種を蒔いて芽は出てきたものの、茎が20センチぐらいになってからは成長がほとんど止まり、冬の寒風にさらされて茎が地を這うようになり、これではとビニールシートで風よけを作り、つるがなんとか支柱に絡むように誘引をするもののなかなか上手くいかず、はじめてのことなので失敗かなと気弱になっていた。ところが暦が春を告げる頃からにわかに茎がどんどん伸び出し、白い花が満開の頃は背丈が2メートルになんなんとしていた。根元は細いのに上の茎の部分が太くなり、つるで絡み合って全体が巨大な生き物のようになる。だから強い風が吹くと、ひとかたまりとなって倒れかかろうとする。しかし倒れかかる方向に丈夫な支柱を一、二本立てるだけでこれを防ぐことが出来た。

この生い茂った姿を見ると「豊」という文字を自然に連想する。その旧字は「豐」で、いかにも豆の茎が密集している姿を表しているように見えるからである。しかしこの文字はまず「豆」が高坏の器を表し、この器に多くの禾穀(穀類の総称)が盛られている様を表し、それがひるがえってゆたかなることを意味するようになったのである。では高坏の器である「豆」がどのようにして現在の意味である「まめ」を表すようになったかというと、「全訳 漢字海」では『先秦までは「菽(しゅく)」がマメ類の総称であったが、本来は高坏の意であった「豆」字がマメの意味に仮借されてきて、漢代以降「豆」がマメ類の総称となった』と解説されている。

話が横に逸れたが、ちょっと目につくだけでもこれだけマメを摘むことが出来た。「絹サヤの卵とじ」を作ることにしよう。「みどりの日」、中途半端にするもしないも心がけ一つのようである。


「夜おしっこに起きる高齢者、回数多いほど高い死亡率」 、それがどうした?

2010-05-02 16:26:36 | Weblog
asahi.comにこんな記事が出ていた。

夜おしっこに起きる高齢者、回数多いほど高い死亡率

 夜、おしっこに起きる回数が多い高齢者ほど死亡率が高い。そんな調査結果を東北大の研究チームがまとめた。2回以上の人の死亡率は1回以下の人の約2倍で、回数が増えると死亡率も高くなる。チームは死因を詳しく調べていないが、持病が悪化したケースのほか、トイレに起きて転んで骨折し、寝たきりになって死につながった場合が含まれているとみている。

 東北大の中川晴夫講師(泌尿器科)らが2003年から5年間、仙台市内のある地域に住む70歳以上の高齢者784人を追跡調査した。

 まず、1カ月間の平均的な夜間の排尿回数を聞いたところ、1回以下の人は425人だった。そのうち18人が調査期間中に死亡、2回以上の359人のうち35人が亡くなった。年齢や持病などの影響を考慮して分析したところ、2回以上の人の死亡率は1回以下の人の1.93倍だった。回数別では2回の人は1.59倍、3回2.34倍、4回以上3.60倍だった。

 中川さんによると、夜間の排尿回数が増える原因としては心不全や糖尿病、高血圧などが考えられ、そうした病気が死亡につながった可能性がある。夜間の排尿が2回以上の人の中には、死亡の直前に骨折で入院した人が数人いたことから、骨折が原因で寝たきりになり、全身状態が悪化して死亡に至ったケースもあったとみている。

 夜間の排尿回数が多いと骨折の危険が高まることは一部の専門家の間で知られている。夜間の排尿回数が多いと死亡率が上がることはスウェーデンの研究でも示されているという。

 中川さんは「夜間の排尿回数が多い人はかかりつけ医に相談してほしい」と話す。(野瀬輝彦)

この見出しを見て最初に思ったことは「阿呆なことを言うて・・・」であった。そういう目で見たものだから、この記事全体が気に入らない。何故このような調査を始めたのか、見当がつかないものだから、医者のろくでもない暇つぶしか、とつい思ってしまう。これが「夜おしっこに起きる高齢者」、「回数が多くても気にしなくてよろしい」とでも言ってくれるのならともかく、「回数多いほど高い死亡率」なんて、年のせいかおしっこの近いのが気になりだした高齢者を怖がらせるだけではないか。余計なストレスを与えて、高齢者を少しでも早く死なせたいのか、と言いたくなる。

排尿行為には習性的な個人差があり、それが高齢者ほど癖のように定着しているのが普通であろう。人のことは分からないから自分のことで言うと、私は尿意を我慢するのは性に合わない。以前にも書いたことがあるが、尿意を抑えきれない緊急事態に恐怖感があるものだから、外出先でトイレが目につくと気軽に立ち寄ることにしている。もし同行者がおれば「このおじいちゃん、おしっこが近くて可哀相」と同情してくれるのかも知れないが、いわゆる頻尿とは異なり、ただ用心のために寄っているだけなのである。「帝王たるものトイレを見つけたら躊躇せずに立ち寄るべし。次の機会を当てにすべからず」とばかり帝王学を実践しているだけなのである。トイレが近くにあることがはっきりしている時には、何時間でも平気である。このように排尿行為は身体の問題だけではなく心の問題でもある。夜、何かで目が覚めると少々の尿意でも几帳面にトイレに通う人がいても不思議ではない。この医者にはそこまでは分かっていないような気がする。分かっておればこんな調査をするはずがないと思うからである。

妻が長年つきあっている友達とはじめて温泉旅館に一泊の旅に出かけたのはよいが、帰ってきてからこぼしていたことがある。同室の彼女が夜通し中、1時間おきぐらいにトイレに通うので、それが気になりだしたら眠れなかったというのである。そういう人でもすでにもう高齢者の域に達するまで生き抜いてきているのだからもう十分ではないか、いまさら怖がらせてどうなると言うものだ。

新聞記事だけでその研究なるものを云々するのは無意味と思いながらも、突っ込みを入れたくなる。70歳以上の高齢者とはあるが、これくらいになると男も女も一緒くたで、性別は関係なしとでもこの先生は思っているのだろうか。少なくとも新聞記事では男女を分けていない。もしこれが事実だとすると、それだけでも「研究」の名に値しない。女性が男性に比べて長命なのも、夜中にトイレに通う回数が男性よりも少ないからである、との新発見をすでに見落としている恐れが高いからである。仙台市内のある地域に住む70歳以上の高齢者と、地域を限定しているのも気になる。暖かい土地、たとえば沖縄ならどうなんだろうと、すぐ考えてしまうからである。

オチが「夜間の排尿回数が多い人はかかりつけ医に相談してほしい」というのが笑わせる。こんな記事を出すからまた心配性の人が増えて、ただでさい忙しい?とこぼしている医者をさらに忙しくするだけではないか。こんな調査をする医者も医者だが、取り上げる新聞も新聞である。天下の高齢者の皆様、立ちションベン以外、好きなときに好きなだけ、心置きなくおしっこをいたしましょう!