最近の記事伊丹空港が米軍基地だった頃 そして・・・を書いた時に、私のかっての学舎であった教養部北校(「旧浪高高等科本館(現・阪大「イ号館」)」)の現在の様子をネットで見たばかりに懐かしくなって、この前の土曜日、何十年ぶりかに訪れた。
学生時代に通っていたように阪急三宮駅から特急で十三まで行き、宝塚線の急行に乗り換えて石橋で降りた。西改札口を出て線路沿いの商店街を少し後戻りして、左に折れると阪急線を横切って176号線との「石橋阪大下」交差点に出る。そして阪大に通じる坂、阪大坂を上り始める。この坂道の左手に学生がよくたむろしていた一膳飯屋というか喫茶店があったなと思ったが名前が直ぐに出てこない。ところがこの「憩」という名の店がまだ建っていた。建物自体が残っているのに驚いたが、帰り道にもう一度前を通りかかると、扉の隙間に夕刊が挟み込まれていたから住人がまだ住んでいるのだろう。

登り道の突き当たりには古びた門があったが、私が通っていた頃は医学部付属病院石橋分院があったようである。その後、大阪大学医療技術短期大学が置かれ、現在は大阪大学総合学術博物館になっているが、門の周辺には昔の俤を残すものは何も無かった。博物館には帰りに寄ることにする。

そこで右に折れると綺麗に敷石の張られた登り道が続く。朱色の柱があざやかな万福寺が右手に現れるが昔の姿を思い出すことは出来ない。そして右手に池を見下ろすところが豊中キャンパスへの入り口になっており、案内地図が掲示されていた。

やがて眼前にかっての北校校舎が見えてきた。しかしその手前の風景はまったくの様変わりである。校舎手前の木立の下あたりはテニスコートになっていて、機敏に動き回る女子学生のテニスウエア姿のまぶしかったことを思い出した。その中の数人の女子学生と思いがけないことで交流が始まったのは私が自治会活動に引きずり込まれてからののことであった。このことはまた改めて書こうと思う。

そのテニスコート跡一帯が造園されて緑が豊かである。その中に旧制高等学校生のマント姿の像と、その手前に金色の「まちかね童子」の像があった。よく見ると「旧姓浪速高等学校同窓会 寄贈 二0一0年五月二七日」と台座に刻まれているので、偶然にも二日前であったことが分かった。この部分の造園がなされたのも最近のことかも知れない。


そして右側のスロープを上っていくと縁に名残のつつじが何株かある。かなり大きな株であるが、半世紀以上も昔にも植わっていたものかどうか分からない。つつじの間に外側を向いて座り込んでいたことなどを思い出した。そして建物の前に出る。


扉の上に大阪大学教養部と記されているが、昔は木の表札が下がっていたような気がする。入り口全体がとてもモダンに造り替えられているようだ。中に入ると二階踊り場に通じる階段が目に入り、階段の上から振り返ると斜め格子模様の扉にその上のステンドグラスそしてシャンデリアがとてもお洒落である。でも昔からそうだったのかどうか、記憶にないのが残念である。かりにあったとしても、そういうところまで目を向ける心のゆとりが欠けていたのではないかと思う。入り口の右手は廊下に通じるが、その取っかかりにある男子トイレに入ってびっくりした。立派すぎるのである。すべてがオートマティックでなんだか無機質なものだから、昔の生物臭漂うトイレが懐かしくなった。それだけに改装から取り残されたのだろうか、がたびしするドアに心が和んだ。




直ぐ上の写真は3階への階段の踊り場で、左手の小部屋がかっては自治会室で私のたむろ部屋でもあった。右は講堂入り口でさらに右側にもう一つ扉がある。講堂に入るとその右側にピアノが一台置かれてあって、昼休みになると週に何回かその前に集まりコーラスを楽しんでいた。その成果を文化祭で披露したのがこの講堂の壇上で、その時の様子を以前にフェスティバルホール 大阪大学フロイントコールで紹介したことがある。扉の窓ガラス越しに内部をみると、テーブルと椅子が所狭しと並べられていたので、今でもなにかの講義に使われているのだろうか。ギターアンサンブルのようなグループが練習していたので、中に入るのを遠慮した。

建物の外に出て南側を見下ろすとグライダーが目に入った。何人かが周りを取り囲んでいるので、もし飛ばすのなら見物したいなと思ったが、考えてみるとグライダーを滑空させるような場所がない。下に降りて少し近づくと「読売テレビ主催 鳥人間コンテスト出場決定 飛行機製作研究会 アルバトロス」の立て看板が目に入って、ああ、あれか、と納得した。テレビで見たことがあったからである。ついでにもう少し足を伸ばすと美味しそうな匂いが漂ってくる。なんと、白昼大学のキャンパスでバーベキューをやっているのである。世間では公園はもちろん海辺でも河原でもいたるところ「バーベキュー禁止」である。小さなことだけれど大学にはまだこのような自由が残されていることに安堵した。グライダーにせよバーベキューにせよ、昔と違う学生生活のゆとりを感じてなんとなく嬉しくなった。しかし私はお昼は慎ましやかに図書館下の食堂で済ませた。この天津飯は450円なりで、ポテトサラダは確か10グラムが12円。土曜日だったがこの広い食堂が大勢の学生で一杯だった。何しに来ていたのだろう。大学事情にすっかり疎くなっていることを実感した。


帰りに大阪大学総合学術博物館 待兼山修学館に立ち寄った。この建物自体は大阪大学医学部の前身である大阪医科大学の付属病院石橋分院として1931年に建てられたとのこと。その概要はネットで紹介されているが、充実した展示をゆっくりと見て回り、かって講義を聴いた先生方の風貌に直接接する思いをしたのもよかった。カフェの屋外テラスで穏やかな初夏の風に吹かれていると、昔と今を自由に往き来している自分を感じてしまった。


学生時代に通っていたように阪急三宮駅から特急で十三まで行き、宝塚線の急行に乗り換えて石橋で降りた。西改札口を出て線路沿いの商店街を少し後戻りして、左に折れると阪急線を横切って176号線との「石橋阪大下」交差点に出る。そして阪大に通じる坂、阪大坂を上り始める。この坂道の左手に学生がよくたむろしていた一膳飯屋というか喫茶店があったなと思ったが名前が直ぐに出てこない。ところがこの「憩」という名の店がまだ建っていた。建物自体が残っているのに驚いたが、帰り道にもう一度前を通りかかると、扉の隙間に夕刊が挟み込まれていたから住人がまだ住んでいるのだろう。

登り道の突き当たりには古びた門があったが、私が通っていた頃は医学部付属病院石橋分院があったようである。その後、大阪大学医療技術短期大学が置かれ、現在は大阪大学総合学術博物館になっているが、門の周辺には昔の俤を残すものは何も無かった。博物館には帰りに寄ることにする。

そこで右に折れると綺麗に敷石の張られた登り道が続く。朱色の柱があざやかな万福寺が右手に現れるが昔の姿を思い出すことは出来ない。そして右手に池を見下ろすところが豊中キャンパスへの入り口になっており、案内地図が掲示されていた。

やがて眼前にかっての北校校舎が見えてきた。しかしその手前の風景はまったくの様変わりである。校舎手前の木立の下あたりはテニスコートになっていて、機敏に動き回る女子学生のテニスウエア姿のまぶしかったことを思い出した。その中の数人の女子学生と思いがけないことで交流が始まったのは私が自治会活動に引きずり込まれてからののことであった。このことはまた改めて書こうと思う。

そのテニスコート跡一帯が造園されて緑が豊かである。その中に旧制高等学校生のマント姿の像と、その手前に金色の「まちかね童子」の像があった。よく見ると「旧姓浪速高等学校同窓会 寄贈 二0一0年五月二七日」と台座に刻まれているので、偶然にも二日前であったことが分かった。この部分の造園がなされたのも最近のことかも知れない。


そして右側のスロープを上っていくと縁に名残のつつじが何株かある。かなり大きな株であるが、半世紀以上も昔にも植わっていたものかどうか分からない。つつじの間に外側を向いて座り込んでいたことなどを思い出した。そして建物の前に出る。


扉の上に大阪大学教養部と記されているが、昔は木の表札が下がっていたような気がする。入り口全体がとてもモダンに造り替えられているようだ。中に入ると二階踊り場に通じる階段が目に入り、階段の上から振り返ると斜め格子模様の扉にその上のステンドグラスそしてシャンデリアがとてもお洒落である。でも昔からそうだったのかどうか、記憶にないのが残念である。かりにあったとしても、そういうところまで目を向ける心のゆとりが欠けていたのではないかと思う。入り口の右手は廊下に通じるが、その取っかかりにある男子トイレに入ってびっくりした。立派すぎるのである。すべてがオートマティックでなんだか無機質なものだから、昔の生物臭漂うトイレが懐かしくなった。それだけに改装から取り残されたのだろうか、がたびしするドアに心が和んだ。




直ぐ上の写真は3階への階段の踊り場で、左手の小部屋がかっては自治会室で私のたむろ部屋でもあった。右は講堂入り口でさらに右側にもう一つ扉がある。講堂に入るとその右側にピアノが一台置かれてあって、昼休みになると週に何回かその前に集まりコーラスを楽しんでいた。その成果を文化祭で披露したのがこの講堂の壇上で、その時の様子を以前にフェスティバルホール 大阪大学フロイントコールで紹介したことがある。扉の窓ガラス越しに内部をみると、テーブルと椅子が所狭しと並べられていたので、今でもなにかの講義に使われているのだろうか。ギターアンサンブルのようなグループが練習していたので、中に入るのを遠慮した。

建物の外に出て南側を見下ろすとグライダーが目に入った。何人かが周りを取り囲んでいるので、もし飛ばすのなら見物したいなと思ったが、考えてみるとグライダーを滑空させるような場所がない。下に降りて少し近づくと「読売テレビ主催 鳥人間コンテスト出場決定 飛行機製作研究会 アルバトロス」の立て看板が目に入って、ああ、あれか、と納得した。テレビで見たことがあったからである。ついでにもう少し足を伸ばすと美味しそうな匂いが漂ってくる。なんと、白昼大学のキャンパスでバーベキューをやっているのである。世間では公園はもちろん海辺でも河原でもいたるところ「バーベキュー禁止」である。小さなことだけれど大学にはまだこのような自由が残されていることに安堵した。グライダーにせよバーベキューにせよ、昔と違う学生生活のゆとりを感じてなんとなく嬉しくなった。しかし私はお昼は慎ましやかに図書館下の食堂で済ませた。この天津飯は450円なりで、ポテトサラダは確か10グラムが12円。土曜日だったがこの広い食堂が大勢の学生で一杯だった。何しに来ていたのだろう。大学事情にすっかり疎くなっていることを実感した。


帰りに大阪大学総合学術博物館 待兼山修学館に立ち寄った。この建物自体は大阪大学医学部の前身である大阪医科大学の付属病院石橋分院として1931年に建てられたとのこと。その概要はネットで紹介されているが、充実した展示をゆっくりと見て回り、かって講義を聴いた先生方の風貌に直接接する思いをしたのもよかった。カフェの屋外テラスで穏やかな初夏の風に吹かれていると、昔と今を自由に往き来している自分を感じてしまった。

