日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

佐渡裕プロデュースオペラ2009「カルメン」に熱くなって

2009-06-28 21:15:09 | 音楽・美術
軽快な序曲の最初のフレーズに身体がぴくっと反応する。いよいよお待ちかね、「カルメン」のはじまり始まりである。それが「ヘェ~、これカルメン?」と思うような舞台に展開したものだから戸惑ってしまった。しかし鳴っている音楽はまちがいなく「カルメン」である。そう、のっけから今年の佐渡裕プロデュースオペラのサプライズなのだった。そして、クーペカブリオレの電動式ハードトップがたたみ込まれるように、スムースに舞台が転換して第一幕が始まった。

登場人物がどのような衣裳で現れるのか、舞台装置がどのように造られて転換していくのか、そして演出は?と、まずそちらの方に注意が向く。現代風の舞台になっていたら頭の中のリセットに時間がかかるかもと気にしていたが、幸い街はセビーリャで人物の服装もそれらしきものだったので、まずは安心した。ところが気持ちに余裕ができると些細なことに気がとられ始めた。衛兵の行進・交代の場面で鉄砲を担いだ兵士がやって来て停止し、担っていた銃を下ろす。ところがその動作が不揃いで締まりがないので、つい「しゃんとせい」と声にならない檄が飛び出る始末である。おまけにその銃を傘立てのようなところに突っ込んでいく。そんなことを三八式歩兵銃でやろうものなら半殺しの目にあわされるだろうに、とつい元軍国少年が顔を出してしまったが、演出がフランス人だし、演じるのは戦争を知らない世代だからと目をつむることにした。

気をとられたことがもう一つあった。けっこう大勢の子供が舞台をうろちょろし、兵隊に絡んだり行進を真似したりする。物語がそうなっているからそれはそれでよいのであるが、私の観た舞台は6月26日午後2時開演の部で、主役が日本人キャストによる初日になる。金曜日午後2時だとまだ学校が終わっていないだろうに、義務教育年齢のこの子供たちが学校を休まされて(?)舞台を走り回っているのである。でも私が親でもそうさせるだろうなと思ったら、今度は子供たちが羨ましくなってきた。

このようにして舞台に対する私の視点が定まりかけたところで、早くもお目当ての一人、カルメンの林美智子の登場である。《ハバネラ》にはじまり佐野成宏のドン・ホセにちょっかいをかけるあたりから落ち着いて舞台を眺めだした。やがて故郷の村からホセを尋ねてやって来たミカエラとの二重唱《聞かせておくれ、母のこと》が始まる。実はミカエラは幕開けにすでに登場しているのだが、その時は私の心構えがまだ定まっていなかったせいか、彼女の歌声が頭の中を通り過ぎただけであったようだ。しかしこの美しい二重唱に私は否応なしに溶け込んでいった。ミカエラ役の安藤赴美子の歌声を耳にしたのは初めだと思うが、ミカエラにふさわしい純朴な歌唱が素直で愛くるしい。この二重唱にうっとりとした頃にはもうすっかり「カルメン」の世界に入り込んでいた。

タバコ工場の女工たちの組んずほぐれつの大立ち回りには驚いたが、そうだ、演出がフランス人(ジャン=ルイ・マルティーノ)なんだと思い出して納得。ついでにオッパイポロリまであるかなと思ったが、私の目には留まらなかった。日本人演出家なら出演者がそこまで素直に従わないような気がしたので、本邦初チャレンジを期待したのである。そういえばリーリャス・パスティアの酒場に営倉から釈放されたホセがやって来ると、カルメンが一人ダンスを演じて気を惹こうとする。その間、帰営ラッパで帰ろうとするホセを引き留めるべく誘惑の手練手管を繰り出す。カルメンとホセが上になり下になりの白熱の演技にそこまでやったらカルメンが歌いにくくなるのでは、と心配になりだしたくらいである。日本人相手にやりすぎではないかとフランス人演出家を批判的に眺めると、カルメンがスカートの裾を高く持ち上げるとストッキングとガーターが飛び出たのがまた気になった。これではジプシー娘ならぬフレンチカンカンの踊り手ではないか、と。過激な演出にもかかわらず林美智子の熱情的な体当たり演技に心の中で喝采した。この酒場に登場したエスカミーリョ役成田博之も私には初めてであるが、若々しくて力強いバリトンである。彼の名前が安藤赴美子と同じく私の頭にインプットされたのは収穫だった。

岩肌に身体を押しつけながら険しい山道を密輸団が荷物を運んでいく。と思っていたら先頭グループは中継拠点のちょっとした空き地で荷物を下ろして休んでいる。山道と中継拠点との場面転換の仕掛けがよくできていて、一瞬に場面が変わるから往き来が苦にならず、舞台がそれだけ広がる。そう言えば舞台装置全般について、トントンと槌の音が聞こえることもなく場面転換がスムースに進む。幕を下ろして指揮者も一休みしている間の作業だから、いつ次の場面が出来上がったのかも分からないだろうに、タイミングよく指揮者が棒を振って音楽が始まるのが不思議だった。たまたま前日6月25日の夜、NHKハイビジョンでウィーン国立歌劇場で指揮する小澤征爾の番組を観ていた時に、指揮者の譜面台の横にある赤や緑のランプで舞台裏から信号が送られてくるという話を聞いたばかりだったので、オペラグラスで覗いてみると確かに譜面台の右に緑はないが赤のランプがある。次の舞台転換の場面で注意していると、赤のランプが点いたかと思うと指揮者が指揮棒で合図をして音楽が始まったので納得した。舞台装置はオーストリア人が担当していて、随所にはっとするような仕掛けがあるのが楽しかった。

この山中の拠点に主役が勢揃いする。密輸団にカルメンがいるのは言うまでもなく、カルメンをめぐってのさや当てから上官に剣を抜いてしまったホセは結局密輸団に加わって見張り役。そこへこれもまたカルメンにめろめろになったエスカミーリョがカルメンを追っかけてやって来るし、一方、ミカエラは重病の母に会わせようとホセを連れ戻しにやって来る。密輸団の拠点にしては誰にでも知れ渡っているようでなんだか頼りないが、それはともかく、カルタの三重唱にカルメンも加わり、ミカエラのアリア、エスカミーリョとホセの二重唱と舞台は一気に高調して私の頭にも血が上ってくる。そして最後の第四幕、カルメンと愛を確かめたエスカミーリョが闘牛場での試合に臨むが、その一方、カルメンとホセに最後の悲劇が待ち受け、終局に向けて舞台はますます緊張を高めていくし観る方も身じろぎが出来ない。そして大詰めを迎えた。気がつけば25分の休憩を含めて3時間半があっという間に通り過ぎていたのである。

それにしてもドン・ホセは可哀想な男である。せっかくホセを慕うミカエラという清純で魅力的な乙女が手を出せば届くところにいるのに、カルメンに狂わされてしまう。公演のパンフレットに佐渡裕は

僕がイメージするカルメン像は、何よりも「自由」を愛し、運命の力を信じている女性。単なる「男を破滅に追い込む性悪の女」でなく、華やかで色がありながらも、誰もが愛さずにいられない、言い知れぬ魅力にあふれた女性です。

と述べているが、結末がすべてを物語っているように、カルメンは魔性の性悪女であるとしか言いようがない。と、私に断定させる出来であった。私だけの気のせいではないと思うが、この「魔性の女」に対する観客の反発がカーテンコールでの拍手に反映されているように思った。ホセ、エスカミーリョ、ミカエラへの拍手は力強いのに、カルメンには心なしか拍手が物足りなかった。こうなれば反発を招くのはカルメン歌手の宿命と悟りきり、ますます凄みのあるカルメンを林美智子さんに演じてもらって、彼女がカーテンコールに出ると拍手がパタリと途絶えブーイングが爆発するところまで入神の技をきわめてほしいなんて思ってしまった。

このように最後まで熱くなってしまったが、次から次へと耳に慣れ親しんだメロディーの流れる「カルメン」、至福のひとときだった。ところで今回は結構多い台詞もフランス語のようだったけれど、ひょっとしてパリ公演でも狙っているのだろうか。