日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

内井惣七著「ダーウィンの思想 ―人間と動物のあいだ」(岩波新書)を読んで

2009-09-02 18:15:36 | 読書

「まえがき」は次のように始まる。

 わたしがダーウィンに出会ったのは、今から三十年以上も前である。科学に統計的な方法が取り入れられていく過程を調べているうちに、ダーウィンの進化論に行き当たったのだ。その後、何度かの中断の時期はあったが、彼の進化論関係の本や航海記を読むたびに新な発見があり、いつしか「ダーウィンの本を書いてやろう」という意欲がわいてくるようになった。念のためにお断りしておくと、わたしは生物学者でも科学者でも歴史家でもなく、一介の哲学研究者にすぎない。それも、「科学哲学」あるいは「科学史科学哲学」と呼ばれる、日本では研究者の層が薄い分野の学徒である
(強調は私、以下同じ)

この強調部分に惹かれてこの本を買った。ダーウインの進化論がたんに自然科学の領域に留まらず、社会思想や哲学にも大きな影響を与えたとは言われているものの、どのように、について私は無知に等しいので、少しは知識が仕入れられるかな、と思ったからである。しかし、哲学的素養に欠ける私にはこの本はやっぱり難しかった。それはこの本が著者のダーウィン研究ノートブックのようなものだったからでもある。よく勉強し思索を重ねておられるのはそれなりに推察できるが、岩波新書の読者層の知的レベルを過大評価なさっているというのか、少なくともご自分と同じレベルと目されているように感じた。素材に過ぎない研究ノートをそのまま公開されていることから、私はそう思ったのである。随所でそれを感じたが、その一、二例を取り上げてみる。

『第4章 種はなぜわかれていくのか ―分岐の原理―』の(2)は次のように始まる。

32 「種の起源」の難解な部分
 わたしは歴史家ではなく哲学者なので、枝葉末節は省いて早く本質に迫りたい。ダーウィンの「分岐の原理」とはいったいどういう内容のもので、彼の学説の中でどういう役割を果たすのか。これが主問題である。それに付随する疑問は、この原理をダーウィンはいつ手に入れたのか。
(92ページ)

ところがこの「分岐の原理」が一癖も二癖もあるしろもろで、その中身はさておき、この著者なりに自分の解釈に到達するまでに十年ほどかかった、なんて言っているほどのものなのである(それほどのものだから中身の説明をスキップせざるを得なかったのである)。著者の解釈は『38 形質分岐の過程 イラストで』(113ページ)に示されている。そして自身の解釈のみに留まらず、ダーウィンからは離れるが、現代の研究者の新しい研究を紹介して、

「分岐の原理」が単に歴史家や哲学者の興味の対象に過ぎないものではないことを確認しておきたい。
(118ページ)

と、ピーター・グラントなどのフィンチ研究に移り、彼の著書、『Grant, P.R.(1986) Ecology and Evolution of Darwin's Finches. 1st ed. 1986, 2nd ed. 1999, Princeton University Press』を次のように紹介する。なおフィンチとは鳥の一種である。

 生きたままの標本を個体識別し、世代を追跡調査して多数の個体を精密に測定する、その威力は絶大である。ガラパゴスフィンチの特異性、変異の豊かさが数量的に、疑問の余地なく明らかにされた。彼らが研究の主要な拠点にしたのは、ダフネ島という小さな島で、彼らは地上性のフィンチ6種類に研究の的を絞った。クチバシの形状を測るだけでなく、フィンチの食料となる二十種あまりの植物の種子をすべて調べ、それらを割るために必要な力も測定した。さらに、雨がふる季節とふらない乾期とでは生存条件が大きく異なるので、乾期の採食行動も調べ、クチバシとの関係を観察した。

 印象的なのは、ハマビシという植物の堅い実を割るときに、小さいガラパゴスフィンチでは、クチバシの長さで一ミリに満たないわずかの差が、実を割れるか割れないかに関わってくる、という事実である(割れなければ、中の実を食べることはできない)。問題は、このようにわずかな差異が子孫に遺伝するかどうかである。個体識別をしたフィンチ数年分のデータを解析した研究員は「イエス」の答えを出した。ダーウィンが直感的に判断したとおり、わずかな個体差も次の世代に遺伝する確率が高いのである。
(123ページ)

グラントの研究方法、研究内容をいかにも具体的に伝えているような文章である。ところが一つ疑問を持つと、具体的と一見思われた記述が実はより多くの疑問を呼び起こす、そういう意味では表面的なものであることが浮かび上がってくる。

下の強調の部分では、クチバシの長さで一ミリに満たないわずかの差、このようなわずかな差異が子孫に遺伝するかどうかである、と取り上げている。確かにこのようなわずかな差異が遺伝すると結論できれば、先の思考に安心して移ることができるだろう。しかし私がまず引っかかったのは、フィンチが何歳の時のクチバシの長さなのだろうと言うことであった。フィンチが幼ければ当然クチバシは短いだろうし、成長すれば長くなるだろう。同じ種の幼いフィンチと成長したフィンチのそれぞれのクチバシの長さを比べても、それは著者が考える意味でのクチバシの長さを比較したことにはならないし、種の異なるフィンチ同士の比較でも、それぞれが何歳なのかが問題になるのではなかろうか。

私が想像するに、グラントは当然比較しようとしているフィンチの年齢をも考慮に入れてデータ整理をしているはずである。もしそうでなければ科学的には無意味のデータになるからだ。そのような疑問を読者に抱え込ませたまま、著者の内井氏は引用部分の始めの強調部分のように、思い入れを強調するのみで情緒に流れてしまっている。私が研究ノート(いや、メモか)と断じる所以である。

そう思ってみると次のような部分も引っかかって来る。

 すべての結果を照会することはできないが、グラントの著書に示された十五の島につての予測と実際のデータとの比較の図のうち、もっとも印象的なのは、ラビダ島(三三七ページ、図94、右下隅)のものである。適応のピーク(山)が、予測では三つできて、互いの間は深い谷で隔てられている。
(128ページ)

この強調部分は実は上に引用したグラントの著書の引用ページなのである。私も含めて、もし誰かが実際にどのようなグラフなのか見ようと思っても、この著書に明示されていないから、原本が手元にない限りおいそれと見ることが出来ない。専門家相手の学術論文ならともかく、岩波新書の読者層を想定した書き方としてはいかがなものだろう。私のブログさえ、たとえばこのような図を引用する限り、その強調箇所をクリックすると引用元に飛んで原図を見られるようにしている。どうもこの著者は自分の勉強ぶりを披瀝するのに熱中しすぎて、一般読者の立場に立って文章を見直すことを怠っているようである。個人的な研究メモなら許されることではあるが。編集者ではないのでこれ以上は立ち入らないことにする。

ふたたび「まえがき」に戻って、著者は次のように記している。

 ダーウィンはきわめて几帳面な「手紙魔」だったので、多数の著書のほか、膨大な量の手紙やノート、手稿などが残されており、それらの研究で何百人もの研究者が「食べていける」ので、巷では「ダーウィン産業」という冷やかし言葉がはやるほどなのだ。不肖わたしは、そのおこぼれにあずかろうというケチな根性は持っていない。

この言葉の真偽を判断するにはなにはともあれ最終ページまで読み通すことが肝心である。途中で挫折しないように「少しでも哲学的議論の素養を身につけた」(162ページからの引用)方に、挑戦をお薦めする。


アフリカンビーフシチューとライス

2009-09-02 11:57:08 | Weblog
CLUB ZANZIBAまで、わざわざ食事に出かけた。「アフリカ風牛テールスープとライス」を以前に食べたら途轍もなく美味しかったので、四種類のランチメニューを一通り試みる気になったのである。昨日はその第二弾で「アフリカンビーフシチューとライス」を注文した。


うまい!これも当たりである。すべてがたっぷり、豊饒を噛みしめている思いがする。ジュースの無料サービスに客が私だけというのも前と同じだった。暇だし、ちょうどよい話し相手と思ったのか、店主が達者な日本語で話しかけてくる。

本職はミュージシャンだそうで、料理を作るのが好きで、自分の作った美味しいものを沢山の人に食べて貰いたいと思ってこの仕事を始めたとのことである。料理はすべてオリジナルで、自分の頭で考えたもの。料理法の基本は母親から受けつぎ、それに自分なりの工夫を加えているから、ここで料理の出来るのは私だけ、と胸を張っていた。牛テールスープとか、ビーフシチューとか、日本人にも馴染みのあるメニューがなぜアフリカ家庭料理かと思ったが、彼のオリジナルであったのである。これで納得。

夜の料理は7時から。10時にはテーブルを片付けてクラブに変身、フロア所狭しと明け方まで踊るそうである。そんな馬鹿元気があるのかどうか、一度試してみたいものである。