木村正治のデイリーコラム

木村正治(きむらまさはる)が世の中の様々な事項について思う事や感じた事を徒然に綴っています。

古代ロマンを遡る(4)

2009-11-16 10:14:45 | インポート
 邪馬台国論争というものを考えてみる。
 一体何なのだろうか。
 幻の邪馬台国と云われているが、私は邪馬台国が幻な
のだと思うようになった。いわゆる邪馬台国は存在しな
かった。それは「やまとこく」で数ある王国の一つであ
り、国のかたちも定まっていなく大和国(日本)の黎明
期であった頃の風景の一つであると見ると自然ではない
か。

 教科書や学説で邪馬台国が述べられている。しかしそ
の出所である魏志倭人伝には邪馬台国など出てこない。
僅かに一カ所記述があるだけでしかも邪馬壱国とだけ書
かれている。一体、いつの頃から誰が何故、邪馬台国が
存在したかのように論争を巻き起こし、まことしやかに
皆が皆唱えるようになったのだろうか。私は邪馬台国論
争は学者が見た幻想であり、それによって広がった壮大
なフィクションではないかと考えるに至った。

 3世紀に晋の官吏であろう陳寿によって書かれた魏志
倭人伝については述べた。今度は6世紀の頃の隋の時代
に書かれた隋書倭国伝を見てみたい。ここには次のよう
に書かれている。
「・・・・この地勢は東が高くて西が低く、ヤマト(※
パソコンで変換できず)に都する、すなわち「魏志」の
いわゆる邪馬台というものである・・・・」と。
 これで確定した。
 つまり、魏志倭人伝の中の唯一の表記である邪馬壱国
は隋書倭国伝で参考例として引用されており、それは邪
馬台ともいうと。
        邪馬壱 = 邪馬台
であることが魏志倭人伝と隋書倭国伝により確定した。
しかも、それをヤマトというとある。

 更に隋書倭国伝には次のように書かれている。
「漢の光武帝のとき、使を遣わして入朝し、みずから大
夫と称した。安帝のとき、また使を遣わして朝貢した、
これを倭の奴国という。桓帝・霊帝の間、その国が大い
に乱れ、たがいに攻伐し、歴年、主がなかった。女子が
おり、名は卑弥呼、よく鬼道をもって衆を惑わした。こ
こにおいて、国人は共に立てて王をした。男弟がおり卑
弥をたすけて国をおさめた。その王には・・・・」と。

 つまり魏志倭人伝で表記されている邪馬壱国が隋書倭
国伝での邪馬台国であり、ヤマトに都して、それは奴国
といい、その国は大いに乱れ長い間、主がなく女子がい
て卑弥呼と云うということだ。
 卑弥呼がいたのはヤマトにある奴国(なこく)という
ことになる。

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古代ロマンを遡る(3)

2009-11-12 23:36:11 | インポート
 陳寿も様々な倭国の地名を聞いて、それを文字をして
記述する場合どうしたのだろうか。恐らく陳寿の語彙の
中にある文字を聞こえた音に充てて記述した可能性が高
い。
 ここで邪馬台国を見てみる。魏志倭人伝の中には邪馬
壱国と記述されている。卑弥呼がいた場所はこうだった
ああだった、その場所は邪(や)馬(ま)壱(*)国(こ
く)だったと陳寿は記した。
 邪馬壱国にしろ邪馬台国にしろ、陳寿の耳には「やま*
こく」と聞こえたと考えるのが自然だろう。

 当時の言葉はどうだったのか。訛りはどうだったのか。
陳寿の耳に倭国の人々の発音が正しく届いたかどうか。
 今日の私達は例えば邪馬台国を教科書的に「やまたい
こく」と発音しそれを認識している。私はそれがもしか
したら事実が見えなくなっている障壁の一つではないか
と考えている。
 固定観念を捨ててみよう。
 そして当時は当て字が多かったという事実も考慮しよう。
 そこで私達の認識している邪馬台国を見てみよう。

 邪馬台国は「台」の部分が陳寿にどう聞こえていたかが
重要である。「やまたこく」「やまたとこく」もっと訛っ
ていたかもしれない。
 私はこれを邪馬台国(やまとこく)と読む勇気を持った。
 つまり「台」もまた聞こえた音の当て字である。
 今日、私達が認識している邪馬台国というものは存在せ
ず、それは「やまとこく」を邪馬台国と表記したものであ
ったのではなかろうか。
 纏向遺跡の姿が脳裏をよぎった。
 まるで私の中で霧が晴れるようであった。
 魏志倭人伝は倭国のことについて記述している。その中
に「やまとこく」の事も記述されている。そこに卑弥呼が
いて女王であったということである。

 勿論、当時の倭国には各地に幾つもの王朝があったと見
る視野が自然であろう。
 ・・・・・少し考えすぎたかもしれない。

 これはあくまでも私の私見である。
 当時に今日の文明を持ってタイムスリップでもできない
限り、その真意は確かめようがない。
 だからこそ古代ロマンなのだ。
 邪馬台国は九州にあったのか、畿内にあったのか。
 果たして邪馬台国自体が存在しなかったのか。
 当時の人々のみが知ることである。
 ただ、九州にも畿内にも3世紀頃にはそれぞれに王朝が
あった。それはまず間違いない。

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古代ロマンを遡る(2)

2009-11-12 23:13:40 | インポート
 何故、邪馬台国という名前が今日ここまで大きくなり
ロマンとなり飛躍しているのだろうか。魏志倭人伝を著
述したのは233年から297年まで生きた陳寿という
人物で晋の国の人である。しかも晋という国は吉川英治
の三国志という小説で日本人の思考回路に定着した三国
志の時代の魏・呉・蜀の果てに魏を滅ぼしたことで最後
まで勝ち残った王朝である。
 つまり、魏という王朝を滅ぼした晋という王朝の官吏
であったのであろう陳寿という人物が記述したものが魏
志倭人伝なのである。

 最近では映画「レッドクリフ」で三国志が再び若者の
間でも話題となったが、本来の三国志も陳寿がまだ滅び
る前の蜀に仕えていた頃に「魏書」「蜀書」「呉書」と
いう形で3世紀末に書いた正史である。つまり、多くの
日本人が正史とはやや飛躍して書かれた吉川英治の小説
「三国志」を三国志として認識して、それぞれの中で魏
の曹操、蜀の劉備・関羽・張飛・諸葛亮、呉の孫堅を思
い描き、飛翔させていたその時代の頃の日本列島がどう
であったかという書物が魏志倭人伝であり、その頃の日
本列島の中に邪馬台国があったということなのである。
 更に言えば陳寿が晋に仕えるようになって記述した魏
志倭人伝は「魏略」という書物を参照にしている。この
二つの書物はほぼ同時代と言われている。

 そこで私はふと考えた。倭国はどのあたりを指してい
たのかということを。中国の書物には唐の時代までは倭
と記され、唐の時代以降には日本と記されている。つま
り今日において私達が指している日本という国とその国
土と魏志倭人伝の頃の倭国とでは指し示す海域、領域、
国土が異なっていた可能性も高い。
 魏志倭人伝に海を越えて云々、山を越えて云々、遥々
倭国を行く様が記されているが実際にその旅路についた
人物が誰であったのか、私は少なくとも陳寿ではないと
思っている。とすれば、陳寿は「魏略」を参考にしつつ
かつ、誰かから言伝に伝え聞いた様や表現を書き写した
可能性が高いのではないか。
 当時の倭国の言葉はどうであったのか。
 今日の日本語とは大きく異なったものであったことは
容易に想像できる。訛りや今はもうない表記もあったか
もしれない。江戸時代頃でさへ表記は当て字が多く地名
や人名も定まった表記が乏しいことを思えば3世紀頃は
尚、当て字であった可能性が高い。

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古代ロマンを遡る

2009-11-12 22:40:47 | インポート
 邪馬台国の所在地はどこかという古代史ロマンの論争
がにわかに激しくなっている。纏向遺跡の発掘調査が進
み、ここに本格的遺跡が確認されたことから、邪馬台国
の九州説と畿内説について畿内説に俄然弾みがついたと
いう見方が強まっている。
 日本国の黎明期について明確な記録や証拠が乏しいた
めにそれがロマンとなり尽きぬ思いへと人々を駆り立て
ている。その時代は2世紀から3世紀の頃であるから私
が先日見た正倉院展の東大寺大仏開眼会の752年から
は僅かに500年程前の時空にしか過ぎない。

 752年、つまり平城京がくにの都として殷賑を極め
東大寺が聖武天皇により建立され鎮護国家を理念として
大仏の開眼会が催された時から500年前の時代が全く
異次元の原始的な生活圏や文明であったとは到底想像が
できない。500年で人々の生活圏が異次元的に飛躍す
るとは考えにくいからである。今日の2009年から遡
ってみる500年は1509年であり、室町末期から戦
国時代初期になる。産業革命や文明開化を経ても当時と
今とでは多少の生活様式や利器が異なるくらいで500
年という差は異次元的な差を生むに至っていない。産業
革命のような劇的変化や発明がまだ現れていなかった奈
良時代から更に500年前は緩やかな時間の経過であっ
た可能性が高く、従って3世紀から奈良時代までに王朝
の交代はあったにせよ異次元的な進歩はまず考えにくい
と私は思っている。

 古事記や日本書紀が編纂されたのが大化の改新の後の
8世紀であることを思えば、それ以前の様々な歴史はあ
った筈だが保管されていなかった、或いは紛失若しくは
時の権力の交代の中で焚書、破棄された可能性が高いと
見たほうが人類的視点としては自然であろう。その時空
の中にこの邪馬台国の時代もある。
 時は3世紀である。この時代の日本が記された現存す
る最古にして唯一の史料は魏志倭人伝である。私達が教
科書的に認識している邪馬台国というのは、この魏志倭
人伝の中に記載されている。魏志倭人伝に記載されてい
るから私達は邪馬台国を認識しているとも言える。しか
しこの邪馬台国、その魏志倭人伝の中にたった一カ所し
か記述されていない。しかも魏志倭人伝の中には邪馬壱
国と記述されているのである。邪馬壱国と一カ所のみ記
述されているものを邪馬台国ではと後世に解釈された。

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正倉院展

2009-11-10 17:50:08 | インポート
 先日、正倉院展に行った。1946年に始まった正倉
院展も今回で61回目とのことである。会場の奈良国立
博物館は時空を超えた宝物を一目見ようとする人々で込
み合っていた。
 正倉院宝物は主に聖武天皇の遺愛品が多く、光明皇后
が聖武天皇の崩御の後、49日目に天皇の遺愛品を東大
寺大仏に献納したことが正倉院宝物の始まりと云われて
いる。

 東大寺の大仏開眼会が行われたのは752年であるか
ら、正倉院にはこの大仏開眼会において皇族や貴族が大
仏に奉納した刀類、ガラス器などの宝物や法要で使用さ
れた仏具類などが保管されているというから、1257
年もの歳月を風霜を凌いで保存され現在の世にその姿を
晒していることを思えば、時空を超えるという事の何た
るかを皮膚感覚で体感し、何とも言えない透き通った気
持になった。
 私が実際に見た宝物は、聖武天皇遺愛の袈裟や自筆の
書状、楽器類、武器、武具、鏡、屏風、遊戯具や中央ア
ジアやペルシア方面から伝来した楽器、遊戯具、その他
楽舞に用いられた品々、儀式に用いられた用具類や様々
な文書であった。

 宝物とはその時代の渦中にあっては文明の最先端の文
物であったり、先進の文明から寄せられたものであった
りしたのだろうが、こうして当時が遥かな歴史の彼方と
なり遠い時代の遺品となって今日に至ると、もはやその
時間軸を今に伝えるその存在そのものが宝物と言えるの
だと感じた。
 楽器の一つとして、紫檀木画槽琵琶が存在感そのもの
として光沢を放っていた。会場には昭和20年代にその
琵琶を実際に奏でた音色が録音されて流れていたが、重
く断片的な空気が止まるような音色に、天平の世の人々
の音域を想像してみた。

 説明文によれば、多くの文物や刀剣類が歴史の変転の
中で失われている。そういう変転の中にあって尚、こう
して時代を超えて当時の様々な文化の往来の痕跡や文物
が保存されているということ自体に大きな価値があるの
だと思う。
 古都は今の世にあっても何かを触発している。

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