木村正治のデイリーコラム

木村正治(きむらまさはる)が世の中の様々な事項について思う事や感じた事を徒然に綴っています。

古代ロマンを遡る(2)

2009-11-12 23:13:40 | インポート
 何故、邪馬台国という名前が今日ここまで大きくなり
ロマンとなり飛躍しているのだろうか。魏志倭人伝を著
述したのは233年から297年まで生きた陳寿という
人物で晋の国の人である。しかも晋という国は吉川英治
の三国志という小説で日本人の思考回路に定着した三国
志の時代の魏・呉・蜀の果てに魏を滅ぼしたことで最後
まで勝ち残った王朝である。
 つまり、魏という王朝を滅ぼした晋という王朝の官吏
であったのであろう陳寿という人物が記述したものが魏
志倭人伝なのである。

 最近では映画「レッドクリフ」で三国志が再び若者の
間でも話題となったが、本来の三国志も陳寿がまだ滅び
る前の蜀に仕えていた頃に「魏書」「蜀書」「呉書」と
いう形で3世紀末に書いた正史である。つまり、多くの
日本人が正史とはやや飛躍して書かれた吉川英治の小説
「三国志」を三国志として認識して、それぞれの中で魏
の曹操、蜀の劉備・関羽・張飛・諸葛亮、呉の孫堅を思
い描き、飛翔させていたその時代の頃の日本列島がどう
であったかという書物が魏志倭人伝であり、その頃の日
本列島の中に邪馬台国があったということなのである。
 更に言えば陳寿が晋に仕えるようになって記述した魏
志倭人伝は「魏略」という書物を参照にしている。この
二つの書物はほぼ同時代と言われている。

 そこで私はふと考えた。倭国はどのあたりを指してい
たのかということを。中国の書物には唐の時代までは倭
と記され、唐の時代以降には日本と記されている。つま
り今日において私達が指している日本という国とその国
土と魏志倭人伝の頃の倭国とでは指し示す海域、領域、
国土が異なっていた可能性も高い。
 魏志倭人伝に海を越えて云々、山を越えて云々、遥々
倭国を行く様が記されているが実際にその旅路についた
人物が誰であったのか、私は少なくとも陳寿ではないと
思っている。とすれば、陳寿は「魏略」を参考にしつつ
かつ、誰かから言伝に伝え聞いた様や表現を書き写した
可能性が高いのではないか。
 当時の倭国の言葉はどうであったのか。
 今日の日本語とは大きく異なったものであったことは
容易に想像できる。訛りや今はもうない表記もあったか
もしれない。江戸時代頃でさへ表記は当て字が多く地名
や人名も定まった表記が乏しいことを思えば3世紀頃は
尚、当て字であった可能性が高い。

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