木村正治のデイリーコラム

木村正治(きむらまさはる)が世の中の様々な事項について思う事や感じた事を徒然に綴っています。

古代ロマンを遡る(5)

2009-11-29 23:29:50 | インポート
 随分と前、京都の鴨川を遡って、源流はどこなのかを
確かめようとしたことがあった。途中から鴨川は賀茂川
と高野川とに別れるが私は賀茂川のほうを遡り、随分と
奥のほうへ辿っていったが、どれが源流か分からなくな
ったのである。
 これと同じような感覚で、日本の古(いにしへ)を遡
ってみたいと思うのは、もはや本能的な次元から湧く思
いである。古事記や日本書紀が編纂された以前の時代の
事実を見たいという思いは遺伝子の中から発せられる刺
戟のような感がする。
 見たいけれど叶わない。叶わないけれど見てみたい。
 しかし今の世の中のどこかに古の痕跡が時空を超えた
伝言を秘めたまま残っているものと思う。それらに気が
つくまでには私にはまだ時間がかかる。

 さて、魏志倭人伝と隋書倭国伝とを照合して考察する
と卑弥呼がいたことは事実だという事が分かるが、そこ
はヤマトに都していた奴国(なこく)であることが分か
る。もっと見てみると、安帝(後漢第6代)の時に使を
遣わして朝貢したのが倭の奴国とある。桓帝(後漢第11
代)、霊帝(後漢第12代)の間に倭の奴国は大いに乱
れ互いに攻伐して歴年というから随分と長い年月の間、
主がいなかった、つまり国王や指導者がいなかったこと
になる。そして女子がいた。名を卑弥呼といった。よく
鬼道をもって衆を惑わした。呪詛のようなことをして人
々に影響を与えていたのだろう。奴国の人々は共に卑弥
呼を立てて王とした。弟がいて卑弥呼を補佐して奴国を
治めた。宮室、楼観、城柵があってみな兵器をもって守
衛しており法をなすことは厳重であったようだ。

 今日の私達が九州なのか畿内なのかと論争していた邪
馬台国はもはや魏志倭人伝と隋書倭国伝により「やまと
こく」である事が確かだと私には思えるようになり、し
かもそれはヤマトに都していた奴国(なこく)だった。
その奴国は卑弥呼の時代よりも遥か以前から存在してお
り、卑弥呼は奴国が乱れて王が長い間いなくなって後の
非常措置として王に立てられた、という歴史風景が浮か
んでくるではないか。
 奴国の王は一時期、女王・卑弥呼であった。弟がまた
王であり補佐したのである。

 九州にヤマトという土地があったのかどうか。九州に
ヤマトという地が無いのなら、ヤマトに都するとは、い
わゆる大和の地であったと私は見る。

コメント
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