飛騨の自然と巨木に親しむブログ

飛騨をうろうろぐるぐる歩き、飛騨高山の自然と巨木をご紹介します。あと、宮笠、登山、トレランのネタなども登場します。

宮城でお手伝いをしてきました(4)

2011-04-25 22:21:33 | 震災ボランティア
 4月になったばかりの塩釜市は、飛騨と同じくらい冷え込みましたが、冬用のシュラフを持って行ったおかげで何とか安眠することができました。でも、起きようとすると体中がぎしぎしいっているような感じ。何とか起き上がり、背中と腰にサロンパスを張り、簡単な朝食を済ませました。その後、身支度を整え、隣接するボランティアセンターへ。

 今日も大勢のボランティアが訪れてきます。いくつかニーズが発表される中、昨日と同じような作業(家の片付けと泥だし)に手をあげました。

 今日の家は、昨日のところのすぐ近くでした。ただ、ちょっと地盤を高くして建てられたこともあり、昨日の家よりは浸水被害はひどくなく、また昨日ある程度片付け終わっていて、今日は床下の泥掃除ということでした。こちらは水道が使え、また2階のトイレも使えるなど昨日とはかなり違う状況でした。

 午前中で大体泥だしが終わり、午後は家の前の歩道に積み上げられた泥を、回収しやすいように車道側に出す作業をしました。泥といっても普通の泥ではなくて、おそらく海底に堆積していたヘドロが津波と共に押し寄せたようで、かなり強烈な悪臭がします。はじめはかなり臭いをガマンするのがつらかったのですが、人間の体はよくできているもので、やがてなれて気にならなくなりました。というか、気にしてたら何にもできない状況だったでしょう。この泥を出す作業をしていましたが、スコップにすくって投げようとしても、かなり粘り気があってくっついてしまいなかなか取れず、苦労しました。

 それでも何とか片がつきそうになった頃、ボランティアコーディネーターが回ってきて、近くの家で手が足りないので回るように言われました。このコーディネーターの方は、はじめは普通のボランティアだったそうですが、ボランティアセンターの調整が回らない様子を見かねて率先してニーズと人を臨機応変にマッチングさせているとのこと。確かに、二日間活動し終えて感じたのは、道具を効率よく使うことの大切さと、人を効率よく動かすことがいかに重要かということでした。ボランティアセンターのスタッフもなかなか手が回りきらないようでしたが、ボランティアがスタッフのフォローをして全体がうまく回るようにすることも、このような事態には大切なのでしょう。

 その後、近くの家に移動して、庭に堆積した泥を撤去すること、また近くの広場で流れ着いた肥料袋(水を吸ってパンパンに膨れ、実に重かった・・・)や瓦礫・車両の撤去などをこなして2日目が終了しました。

 疲れた体でボランティアセンターに帰り、今度は飛騨高山に帰らなければなりません。その前に、携行缶で持ってきたガソリンに余裕がありそうだったので、20l分をボランティアセンターに提供し(ガソリンスタンドは不定期に開店する程度で、給油量も限られるどうで、ボランティアを配送する車の燃料も尽きかけているとのことでした)、着替えもそこそこに帰路につきました。


 帰りの車中、運転しながら、二日間に会ったことを反芻してみました。見たもの、聞いた話、かいだ臭い、触れた泥の感触、運んだ物の重み・・・。「何かしなきゃ」、という衝動に動かされる格好で出かけた今回、残ったのは疲労と筋肉痛でした。あと、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけの自己満足・・・。

 「何かしなきゃ」という思いは、実は今回の地震の前から自分の中に居座っている気持ちでした。というのも、去年、山で仲間を亡くしました。偶然が重なったというには悲しすぎる事故で、目の前で命の灯が消えようとするのを、ほとんど何もできないまま看取ることしかできませんでした。そのときの何もしてやることができなかった自分の無力感の裏返しで、いつも「何かしなきゃ」と思い続けていたような気がします。今回の地震の被害、特に津波で押し流される家々をみて、「ここでなら『何か』ができるんじゃないか」という想いが積み重なって、被災地にお手伝いに行くことにしたのです。『何か』が何だったのか、また何かができたのかどうかはよくわかりませんが、片付けた家の方から感謝の言葉をかけていただいて得たものが、「やってよかった」というささやかな自己満足でした。ささやかではありますが、2日間の肉体労働と往復1,300kmの運転の対価として十分すぎるものでした。4月2・3日の後、これに味をしめて、16・17日に同様のスケジュールで石巻市に行ってお手伝いしてきました。塩釜市はボランティア活動が収束に向かいつつあるようでしたが、石巻市は大勢のボランティアが活動していますがまだまだ先は長そうです。うまくすればいつか『何か』がわかるかもしれないという淡い期待を持ちつつ、この先も機会を捉えてお手伝いに行こうと思っています。

 快く送り出してくれた家族と、携行缶ばかりか中身のガソリンを提供していただいた知人の方々に深くお礼申し上げます。


宮城でお手伝いをしてきました。(3)

2011-04-24 18:58:28 | 震災ボランティア
 午後からは、別のグループのメンバーも合流しました。若い大学生たちです。さすが力があり、しかも疲れ知らず。人数が増えたこともあり、作業ははかどりました。この家の裏手には、隣の工場から流れてきた資材などもあり、これは一日じゃ終わらないかも、と思っていたのですが、何とか大体のところは片付きました。

 途中、前の通りにパワーショベル(ショベルを大きなはさみに換えてあるやつ)がきて、積み上げた瓦礫などをダンプカーに積む作業を始めました。家の中にあったありとあらゆるものが積まれ、どこかに運ばれていきました。これだけの瓦礫、ごみにの分別なんて言っている余裕は無いでしょう。パワーショベルが通ったあとは、瓦礫は無くなり、ほこりっぽい通りとなりました。この積み重ねで、一軒一軒の家を再建していくしかないのだなぁと思うと、気が遠くなる思いでした。

 朝9時半頃から始まった作業は、夕方4時過ぎくらいで打ち切り。まだ作業が残っている場合は、翌日継続となりますが、今回のお宅は、後は自力でできるから、と言うことで終了となりました。とはいえ、また住めるようになるまでには、外壁や床をはがして張りなおしたり、大部分は撤去されたものの残った泥をきれいに洗うなど、まだまだ先は長そうです。

 家の方にお別れの挨拶をして、みんな疲れた体を引きずり、大通りまで出て迎えのバスを待ちました。待っている間は、さっき別れた家の方の話。「僕らはお手伝いしかできないけど、これからまだ大変だろうなぁ・・・」たくさんの、ほんとにたくさんの被災者の方が居て、ボランティアができるのはほんの一部分。ただ、泥のひとすくい、たたみ一枚でも、運んだだけは被災者の方の負担を減らせる、ということを思うと、はるばる来て手伝えてよかったんだな、と感じました。

 ボランティアセンターに帰ると道具とビブを返し、挨拶をして出ました。その後、近くの七ヶ浜町でもボランティアを募集しているという情報があり、電話が話中でつながらないので行って様子を見ることにしました。あと、避難所に差し入れるように買って行った物資(ウェットティッシュ、トイレットペーパー、洗剤、使い捨て食器など)を差し入れるところが見つかれば、と思いつつ。

 結局、ボランティアは間に合っているということで、明日も引き続き塩釜で活動することに。物資は公民館の避難所で受け取っていただけました。途中、海岸沿いを走ったとき、一面の荒地が目に入りました。それはテレビなどで見た、津波にすべて運び去られ、土台だけが残った住宅地でした。海岸沿いの防風林のアカマツも、何本か折れたり倒れたりしていました。実際に自分の目で見ても、その被害のひどさは自分の理解を超えていました。(今も実感がわかないまま・・・)

 その夜は、すぐ脇にある公園にテントを張って泊まります。他に3張りほどテントがあり、片隅にテントを張りました。山でも食べるアルファ米のご飯とスープ、コーヒーの質素な夕餉を取り、早々にシュラフに入りました。明日は筋肉痛で起きれないかも、と思いながら、深い眠りに落ちました。


宮城でお手伝いをしてきました。(2)

2011-04-23 18:19:41 | 震災ボランティア
 マイクロバスに10名あまりが角スコ(先が四角いスコップ)などを持って乗り、ボランティアセンター(エスプ塩釜)を出発。はじめのうち車窓からは、ヒビの入ったブロック塀やブルーシートを屋根にかけた住宅が散見される程度でしたが、そのうちひっくり返ったり横倒しになった車が目に入ってきました。津波があったところは被害が格段に大きくなっています。幹線道路は通行可能な状態ですが、一本路地に入った住宅以外には道路の両脇に瓦礫が積み重なっているのが見えました。やがてバスが止まり、今日の活動場所に案内されました。

 訪れたのは普通の住宅でしたが、すでに家の方がある程度片付けはじめていて、道路には泥があちこちについた家具などが積み上げられていました。お手伝いするのは、津波で浸水した家の中のものをすべて外に出す(捨てる)作業です。家の方にあいさつして中に入ると、たんすやたたみ、フトンが散乱する部屋一面を泥が覆っている状態でした。ボランティアのメンバー同士、力をあわせて一つ一つの家財を運び出しました。
 たんすは、引き出しを外して運べば運びやすいのですが、湿っていて引き出しが開かず、また中の衣類などが水を吸って重く、大勢で持ち上げて外に運びました。たたみも水を吸って重く、泥で滑って持ちにくい状態でしたが、まだ形がしっかりしていて運べたのですが、フトンは水を吸って重い上にやわらかくて持ち上げるのが難しかったです。手紙類や写真、貴重品類など、大切そうなものがあると、家の方に声をかけ要不要を判断していただきました。

 道にはみるみる運び出したものが積み上げられていきました。家の中にこんなに物があったのか、と思うほどの量でした。それが隣の家からも、向かいの家からも運び出されて積み上げられ、道路は真ん中に車一台がやっと通れる位の狭さになっていました。

 時折休憩を挟みながら作業を進め、お昼時。みんな持ってきた昼食をとっていると、家の方がおにぎりとミニカップめんを提供してくれました。何も心遣いは不要ということになっているけど、家の方にしてみると何かお礼というかお返しを、と思われたのかもしれません。はじめはみんな固辞していましたが、せっかくの気持ちをあまり断るのも、と思いいただくことに。これだけ用意するのに、きっと何時間もお店で並んで買ってきていただいたのかな、と思うと、とてもありがたいものに思えました。


宮城でお手伝いをしてきました(1)

2011-04-22 00:15:07 | 震災ボランティア
 3月11日。仕事中の車のラジオで第一報を聞いた東北大震災。「高さ6mの津波の恐れがあります」と伝えるラジオを聞いて、「まさかそこまで・・・」と思っていたら、実際はもっとものすごい波(というか海そのもの)が押し寄せて、海岸沿いの町を蹂躙していきました。

 震災発生以来、なんか落ち着かず、「なにかしなきゃ」とずっと思っていました。すぐできること、と思い、職場での義援金にこれまでよりちょっと多く協力して少しは気がおさまったものの、義援金の配分が決まらずなかなか被災者に届けられない現実を見るにつれ、「なにかしなきゃ」感はどんどん大きくなっていきました。

 現地に行ってお手伝いをしよう!と思い立ち、インターネットで災害ボランティアを受け入れしているところを探しました。そして宮城県社会福祉協議会の災害ボランティアセンターのサイトにたどり着き、塩釜市で受け入れしていることを知りました。情報を集め、ガソリン携行缶を借り集め、避難所などで必要そうな物資を買い集めて、とりえず4月の2・3日にお手伝いにいってきました。

 気を張って夜中運転をして行き、東北自動車道の福島のあたりで夜明け。仙台南部道路に入って海岸近くになると、田んぼの中に車や木材などが流れ込んで散らばっているのが目に入りました。テレビなどで見ていた被害の様子が、映画やドラマのシーンじゃなくて現実なのだということを改めて認識させられました。

 三陸自動車道利府塩釜ICで降り、ボランティアセンターのある市街地方面へと向かいました。途中では地震による建物の被害はそれほど目に付きませんでした。そのかわり、「がんばろう東北!」「がんばろう塩釜!」という張り紙があちこちにあったのが印象に残っています。

 初めて訪問したボランティアセンター。8時前についたのに、もうある程度の人が動き回っていました。身支度を整えて受付を済ませ、渡された緑色のビブを着けて待機。やがてマッチング(依頼者の内容に合うボランティアを選び出すこと)の時間が来ました。



 初めてでよくわからないまま、ある家の片付け&泥だしのグループに手を上げて参加することになりました。


再開

2011-04-11 00:14:26 | インポート
 昨年秋からいろいろありましてお休みしていましたが、最近、そろそろ再開しようかな・・・と思うようになってきました。

 今日は特に書くことは無いけど、東日本大震災に関連してMLで知った「ナラの木」という詩を紹介するサイトを紹介します。地に根ざして力強く生きることを感じる詩です。

 http://blog.goo.ne.jp/oaktree1949