飛騨の自然と巨木に親しむブログ

飛騨をうろうろぐるぐる歩き、飛騨高山の自然と巨木をご紹介します。あと、宮笠、登山、トレランのネタなども登場します。

岩沼市(宮城県)でお手伝い

2011-07-14 00:48:23 | 震災ボランティア
 去る9日~11日にかけて、宮城県岩沼市のボランティアセンターへお手伝いに行ってきました。

 緊急的な災害支援は徐々に減り、生活再建に向けた取り組みが中心になってきているという感触を、被災地のボランティアセンターのHP、ブログ等で持ち始めていましたが、その様子を確かめることも目的のひとつです。

 9日に日付が変わったころ、飛騨高山を出発。松本ICから高速道路に入り、朝8時に岩沼市災害ボランティアセンター到着。身支度をして、玄関前に並ぶ人の列の後ろに。8時半から受付、その後ニーズとのマッチングという流れで進みました。


 (マッチングの様子。室内で座って、しっかりやるスタイルでした。)

 こちらのボランティアは、午前・午後2時間ずつの完全分割制。時間が来れば途中でも帰り、新たなニーズを出してもらうスタイル。移動の手間と時間が余計にかかりそうですが、午前で疲れてしまった場合や、午前しか作業できない場合などには参加しやすい形態といえます。

 9日は午前午後とも浸水した倉庫の片付け(全部廃棄するように運び出す)、10日の午前は民家の庭の泥等撤去、午後は町内会の方と一緒に側溝のヘドロ上げ。11日は午前中に民家の畑の草とりという内容でした。
 折しも東北に梅雨明けが訪れ、日向で立っているだけ汗がダーダー、消耗するコンディションでした。(そのため11日は午前中のみ作業で、午後帰郷。)

 岩沼市は、仙台平野にあり、津波が内陸深くまで入り込んだところですが、今回の活動中や移動する中では、被害があまり目に付きませんでした。これは、被害が無かったということではなく、地震後4ヶ月のうちに徐々に復旧してきた結果ということを聞きました。実際、集落を離れ海沿いの地区を通ったときには、見渡す限りの水田に泥と海水がたまり、磯の香りに似た異臭がしていました。津波を受け止めようとして逆に引き抜かれた防風(砂?)林のクロマツもあちこちに転がっていました。


 11日にお手伝いした畑の草とりも、はじめマッチングで聞いたときは「草とりって、震災と関係あるのかな・・・」と思ったけど、実際行ってみると畑の上にうっすらヘドロが堆積し(乾燥していたので臭いがあまりしなかったのが救いでした・・・)、家の方が「これまでこんな雑草は無かった」と言われるように泥が雑草の種も運んできて芽生えているようでした。草とりした家の建物のほうはというと、壊れてはいないながらも床上浸水しており、床板をはがしてようやく泥を撤去したところとのことでした。生活再建に踏み出したところなのでしょうが、まだまだ普通の生活を送るようになるまでには時間がかかりそうです。

 (草とりする中見つけた、がんばって残っていたジャガイモ!根元には育った新ジャガが顔をのぞかせていました)

 今回、初めて職場にボランティア休暇を申請して行きました。また高速代も「災害派遣等従事車両」の証明をもらい無料で行くことができました。
 地域ごとのばらつきはあることを承知でいうと、全体の印象としては、震災後4ヶ月がたって、かなり復旧が進んだなぁ、と思いました。今回お手伝いした被災者の皆さんは、戸惑いながらも新しい生活を築いている途上とお見受けしました。今回も、新潟、千葉、埼玉、徳島など、はるばる遠くから駆けつけた方々と一緒に活動しましたが、「そっと行って、ちょっと手伝って、そっと帰る」をコンセプトとしているわたしの震災復旧お手伝いは、そろそろ出番がなくなってきたんだろうなぁ、と感じました。「東北魂」「岩沼魂」などと書かれたTシャツをよく見かけましたが、東北で、あるいは市町村などもう少し小さなコミュニティごとに、お手伝いに行く人が増えるようになってもらえたら・・・と思いました。

 今日、塩釜市と石巻市の社会福祉協議会から、前に行ったお手伝いのお礼状が郵送されてきました。あちらも、活動や組織をいったん仕切りなおして、継続した新しい活動に取り組んでいくようです。「東北魂」「○○魂」の踏ん張りを、飛騨高山から期待を込めて見守っていこうと思います。もしかしたらまた気が向いて、ちょっとだけお手伝いをしにいくかもしれませんが。 


お手伝いしに東北へ

2011-07-07 22:55:34 | 震災ボランティア
 次の週末、お手伝いに東北へ行こうと思っています。

 主に宮城のボランティアセンターの様子を見ているところでは、泥かきがだいぶ進んできているようです。
 まだまだ元に戻るには時間はかかるでしょうが、片付けに猫の手も借りたい!!!という状況からは少しずつ次の段階に進んでいるような印象を受けます。


 4月2・3日の塩釜市、16・17日の石巻市、5月14・15日の気仙沼市唐桑半島(このときだけは他団体のボラツアー同行)。そっと行って、ちょっと手伝って、そっと帰ってくる。仕事や地域の行事の合間を縫って出かけたささやかなお手伝いも、今回で一区切りにしようかな、と思っています。政治が混乱している中でも、現場で事に当たっているスタッフやボランティアの人と人、心と心ののつながりは、着実な復旧~復興を被災地にもたらしていると思います。そろそろ、遠くから1人で駆けつけるボランティアの出番は無くなっていくだろうと(希望的観測として)思うのです。(今年こそは宮笠のことをしっかり取り組もう!と決意したこともあり、そろそろ取り組まないとどんどん遅れてしまうという理由もありますが・・・)




 石巻専修大学のボラテントサイト (青いのがマイホームです)


 気仙沼市唐桑半島の海岸での流木・がれき撤去 (海、きれいだったなー)


 ボラツアー主催団体RQのバス (意欲のある若者たちと元若者たちをいっぱい乗せて走ってくれました)


 今回は初めて、11日(月)にボランティア休暇なるものを取得して3日間の予定で向かう予定。ただ、雨が降ればお手伝いもできないかも知れませんが、そこは行ってからのお楽しみ、という感じのノリで、気負わず向かおうと思います。雨で休みの日は、世界遺産となった平泉の中尊寺でも見てこようかな・・・


 では、無事帰ってきた報告ができますように・・・。


宮城でお手伝いをしてきました(4)

2011-04-25 22:21:33 | 震災ボランティア
 4月になったばかりの塩釜市は、飛騨と同じくらい冷え込みましたが、冬用のシュラフを持って行ったおかげで何とか安眠することができました。でも、起きようとすると体中がぎしぎしいっているような感じ。何とか起き上がり、背中と腰にサロンパスを張り、簡単な朝食を済ませました。その後、身支度を整え、隣接するボランティアセンターへ。

 今日も大勢のボランティアが訪れてきます。いくつかニーズが発表される中、昨日と同じような作業(家の片付けと泥だし)に手をあげました。

 今日の家は、昨日のところのすぐ近くでした。ただ、ちょっと地盤を高くして建てられたこともあり、昨日の家よりは浸水被害はひどくなく、また昨日ある程度片付け終わっていて、今日は床下の泥掃除ということでした。こちらは水道が使え、また2階のトイレも使えるなど昨日とはかなり違う状況でした。

 午前中で大体泥だしが終わり、午後は家の前の歩道に積み上げられた泥を、回収しやすいように車道側に出す作業をしました。泥といっても普通の泥ではなくて、おそらく海底に堆積していたヘドロが津波と共に押し寄せたようで、かなり強烈な悪臭がします。はじめはかなり臭いをガマンするのがつらかったのですが、人間の体はよくできているもので、やがてなれて気にならなくなりました。というか、気にしてたら何にもできない状況だったでしょう。この泥を出す作業をしていましたが、スコップにすくって投げようとしても、かなり粘り気があってくっついてしまいなかなか取れず、苦労しました。

 それでも何とか片がつきそうになった頃、ボランティアコーディネーターが回ってきて、近くの家で手が足りないので回るように言われました。このコーディネーターの方は、はじめは普通のボランティアだったそうですが、ボランティアセンターの調整が回らない様子を見かねて率先してニーズと人を臨機応変にマッチングさせているとのこと。確かに、二日間活動し終えて感じたのは、道具を効率よく使うことの大切さと、人を効率よく動かすことがいかに重要かということでした。ボランティアセンターのスタッフもなかなか手が回りきらないようでしたが、ボランティアがスタッフのフォローをして全体がうまく回るようにすることも、このような事態には大切なのでしょう。

 その後、近くの家に移動して、庭に堆積した泥を撤去すること、また近くの広場で流れ着いた肥料袋(水を吸ってパンパンに膨れ、実に重かった・・・)や瓦礫・車両の撤去などをこなして2日目が終了しました。

 疲れた体でボランティアセンターに帰り、今度は飛騨高山に帰らなければなりません。その前に、携行缶で持ってきたガソリンに余裕がありそうだったので、20l分をボランティアセンターに提供し(ガソリンスタンドは不定期に開店する程度で、給油量も限られるどうで、ボランティアを配送する車の燃料も尽きかけているとのことでした)、着替えもそこそこに帰路につきました。


 帰りの車中、運転しながら、二日間に会ったことを反芻してみました。見たもの、聞いた話、かいだ臭い、触れた泥の感触、運んだ物の重み・・・。「何かしなきゃ」、という衝動に動かされる格好で出かけた今回、残ったのは疲労と筋肉痛でした。あと、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけの自己満足・・・。

 「何かしなきゃ」という思いは、実は今回の地震の前から自分の中に居座っている気持ちでした。というのも、去年、山で仲間を亡くしました。偶然が重なったというには悲しすぎる事故で、目の前で命の灯が消えようとするのを、ほとんど何もできないまま看取ることしかできませんでした。そのときの何もしてやることができなかった自分の無力感の裏返しで、いつも「何かしなきゃ」と思い続けていたような気がします。今回の地震の被害、特に津波で押し流される家々をみて、「ここでなら『何か』ができるんじゃないか」という想いが積み重なって、被災地にお手伝いに行くことにしたのです。『何か』が何だったのか、また何かができたのかどうかはよくわかりませんが、片付けた家の方から感謝の言葉をかけていただいて得たものが、「やってよかった」というささやかな自己満足でした。ささやかではありますが、2日間の肉体労働と往復1,300kmの運転の対価として十分すぎるものでした。4月2・3日の後、これに味をしめて、16・17日に同様のスケジュールで石巻市に行ってお手伝いしてきました。塩釜市はボランティア活動が収束に向かいつつあるようでしたが、石巻市は大勢のボランティアが活動していますがまだまだ先は長そうです。うまくすればいつか『何か』がわかるかもしれないという淡い期待を持ちつつ、この先も機会を捉えてお手伝いに行こうと思っています。

 快く送り出してくれた家族と、携行缶ばかりか中身のガソリンを提供していただいた知人の方々に深くお礼申し上げます。


宮城でお手伝いをしてきました。(3)

2011-04-24 18:58:28 | 震災ボランティア
 午後からは、別のグループのメンバーも合流しました。若い大学生たちです。さすが力があり、しかも疲れ知らず。人数が増えたこともあり、作業ははかどりました。この家の裏手には、隣の工場から流れてきた資材などもあり、これは一日じゃ終わらないかも、と思っていたのですが、何とか大体のところは片付きました。

 途中、前の通りにパワーショベル(ショベルを大きなはさみに換えてあるやつ)がきて、積み上げた瓦礫などをダンプカーに積む作業を始めました。家の中にあったありとあらゆるものが積まれ、どこかに運ばれていきました。これだけの瓦礫、ごみにの分別なんて言っている余裕は無いでしょう。パワーショベルが通ったあとは、瓦礫は無くなり、ほこりっぽい通りとなりました。この積み重ねで、一軒一軒の家を再建していくしかないのだなぁと思うと、気が遠くなる思いでした。

 朝9時半頃から始まった作業は、夕方4時過ぎくらいで打ち切り。まだ作業が残っている場合は、翌日継続となりますが、今回のお宅は、後は自力でできるから、と言うことで終了となりました。とはいえ、また住めるようになるまでには、外壁や床をはがして張りなおしたり、大部分は撤去されたものの残った泥をきれいに洗うなど、まだまだ先は長そうです。

 家の方にお別れの挨拶をして、みんな疲れた体を引きずり、大通りまで出て迎えのバスを待ちました。待っている間は、さっき別れた家の方の話。「僕らはお手伝いしかできないけど、これからまだ大変だろうなぁ・・・」たくさんの、ほんとにたくさんの被災者の方が居て、ボランティアができるのはほんの一部分。ただ、泥のひとすくい、たたみ一枚でも、運んだだけは被災者の方の負担を減らせる、ということを思うと、はるばる来て手伝えてよかったんだな、と感じました。

 ボランティアセンターに帰ると道具とビブを返し、挨拶をして出ました。その後、近くの七ヶ浜町でもボランティアを募集しているという情報があり、電話が話中でつながらないので行って様子を見ることにしました。あと、避難所に差し入れるように買って行った物資(ウェットティッシュ、トイレットペーパー、洗剤、使い捨て食器など)を差し入れるところが見つかれば、と思いつつ。

 結局、ボランティアは間に合っているということで、明日も引き続き塩釜で活動することに。物資は公民館の避難所で受け取っていただけました。途中、海岸沿いを走ったとき、一面の荒地が目に入りました。それはテレビなどで見た、津波にすべて運び去られ、土台だけが残った住宅地でした。海岸沿いの防風林のアカマツも、何本か折れたり倒れたりしていました。実際に自分の目で見ても、その被害のひどさは自分の理解を超えていました。(今も実感がわかないまま・・・)

 その夜は、すぐ脇にある公園にテントを張って泊まります。他に3張りほどテントがあり、片隅にテントを張りました。山でも食べるアルファ米のご飯とスープ、コーヒーの質素な夕餉を取り、早々にシュラフに入りました。明日は筋肉痛で起きれないかも、と思いながら、深い眠りに落ちました。


宮城でお手伝いをしてきました。(2)

2011-04-23 18:19:41 | 震災ボランティア
 マイクロバスに10名あまりが角スコ(先が四角いスコップ)などを持って乗り、ボランティアセンター(エスプ塩釜)を出発。はじめのうち車窓からは、ヒビの入ったブロック塀やブルーシートを屋根にかけた住宅が散見される程度でしたが、そのうちひっくり返ったり横倒しになった車が目に入ってきました。津波があったところは被害が格段に大きくなっています。幹線道路は通行可能な状態ですが、一本路地に入った住宅以外には道路の両脇に瓦礫が積み重なっているのが見えました。やがてバスが止まり、今日の活動場所に案内されました。

 訪れたのは普通の住宅でしたが、すでに家の方がある程度片付けはじめていて、道路には泥があちこちについた家具などが積み上げられていました。お手伝いするのは、津波で浸水した家の中のものをすべて外に出す(捨てる)作業です。家の方にあいさつして中に入ると、たんすやたたみ、フトンが散乱する部屋一面を泥が覆っている状態でした。ボランティアのメンバー同士、力をあわせて一つ一つの家財を運び出しました。
 たんすは、引き出しを外して運べば運びやすいのですが、湿っていて引き出しが開かず、また中の衣類などが水を吸って重く、大勢で持ち上げて外に運びました。たたみも水を吸って重く、泥で滑って持ちにくい状態でしたが、まだ形がしっかりしていて運べたのですが、フトンは水を吸って重い上にやわらかくて持ち上げるのが難しかったです。手紙類や写真、貴重品類など、大切そうなものがあると、家の方に声をかけ要不要を判断していただきました。

 道にはみるみる運び出したものが積み上げられていきました。家の中にこんなに物があったのか、と思うほどの量でした。それが隣の家からも、向かいの家からも運び出されて積み上げられ、道路は真ん中に車一台がやっと通れる位の狭さになっていました。

 時折休憩を挟みながら作業を進め、お昼時。みんな持ってきた昼食をとっていると、家の方がおにぎりとミニカップめんを提供してくれました。何も心遣いは不要ということになっているけど、家の方にしてみると何かお礼というかお返しを、と思われたのかもしれません。はじめはみんな固辞していましたが、せっかくの気持ちをあまり断るのも、と思いいただくことに。これだけ用意するのに、きっと何時間もお店で並んで買ってきていただいたのかな、と思うと、とてもありがたいものに思えました。