goo blog サービス終了のお知らせ 

Kuni Takahashi Photo Blog

フォトグラファー高橋邦典
English: http://www.kunitakahashi.com/blog

お湯がでない!

2006-08-16 20:33:06 | 報道写真考・たわ言
昨日からガスなしの生活を強いられている。

大家がガス代を滞納していたようで、アパートのガスが止められてしまったのだ。

まあ電気や水がなくなるよりはましだけれど、やっぱりガスがないと結構不便だ。

料理ができない。湯が沸かせないから茶も飲めない。それから、家のアパートは建物全体がガスの湯沸しシステムなので、シャワーの湯がでないのだ。夏場とはいえ、冷水のシャワーは結構こたえる。

これが冬だったらと思うと、ぞっとする。暖房なし、お湯なしで凍死するところだった。(ちょっと大袈裟?)

イラクで従軍してたときのことを考えればなんてことはないんだけど、やっぱり自分の家とイラクの海兵隊テントを一緒に考えるには気分的にちょっと無理があるし。。。

明日は直ってくれることを願うが、こういう問題がおきると大家はあんまり信頼できないんで、なんか嫌な予感がするんだよな。

そんなわけで、今晩もまた冷凍食品をレンジでチン!だ。。。虚しい。




















長編文章

2006-08-12 13:49:34 | 報道写真考・たわ言
どうも文章を書くのが億劫で困っている。

文章には、起承転結という組み立てが必要だ。写真のようにシャッターを押す一瞬で結果が決まるわけではない。

何か伝えたいことがあったら、まず前置きを書いて、本題に持っていって、それから文章を締めくくらなくてはならない。写真だったら読者が勝手にじっくり見てくれるような細部のことまで記述する必要もある。単刀直入にいかないそういう過程が面倒に思えるのだろう。要するに僕はせっかちで、辛抱強くないのだ。以前にも書いたことがあるけれど、正直いってこのブログを書き続けることも僕にとっては結構な苦行なのだ。

それに、なんだかここ数年集中力が随分と落ちてきたような気がする。

いつも頭の中でいろんなことが渦巻いているせいか、文章を書いていてもすぐにほかの事に思いが飛んでしまいなかなか筆が進まないし、1時間もじっと同じ姿勢で物を書いていると我慢がならなくなってくるのだ。

それでも仕事で記事を書かなくてはならないことも少なくないし、そういうときは観念してなんとか締め切り前にあげるように頑張ってみる。まあ、そういう記事のほとんどはそれほど長い文章ではないのでどうにかなるのだけれど。

しかし、数ヶ月前から仕事絡みでかなりの長編を書かざるを得ない状況になっていて、かなりの苦戦中だ。

これまでに書いたことのない分量で、もうそのことを考えただけで気が遠くなってくる。書きたいという気持ちはあるのだけれど、実際にパソコンに向かっていると、あまりにその文章の展開が遅すぎて、とても最後までたどり着けるような気がしないのだ。イラクにいるときにも時間をみつけてはちょこちょこと書き足してはいたのだが、微々たる進歩で、まだまだトンネルの出口は闇の彼方だ。

そんなわけで、はっきりとした締め切り日が決まっていないのもいいことに、今日もついつい億劫がってその長編を書くことを後回しにしてしまっている自分がいる。

やっぱり僕には写真が肌にあっているなあ。
















軽視される写真

2006-08-01 08:52:15 | 報道写真考・たわ言
写真は軽視されている、と思うことがよくある。

特に文章と比べるとなおさらだ。

先日書き込んでくれた田中さんのコメントのように、写真は簡単にパッパと撮れるものだと思っているのか(確かにそんな写真もあるけれど。。。)、どうも写真の社会的地位はまだまだ低いような気がする。

日本では、報道写真にそれが顕著に現れているようだ。

新聞を手にとってみても、写真にクレジット(写真家の名前)が載ることはほとんどない。写真の質自体も、カメラマンの視点というよりも、単なる記事の補足のような「説明的写真」ばかりが目立つ。写真をひとつの作品として大きく扱うアメリカの新聞とは大違いだ。

しかしそんなアメリカの新聞でさえ、レイアウトなどの勝手な都合で、写真が簡単にボツになったり、理不尽なトリミングをされたりすることは日常茶飯事だ。記事が編集されることはあっても、写真ほどダメージをうけるような扱いをされることはない。それはやっぱり写真が記事より軽視されているからだと思う。

日本でも最近、雑誌などで「フォト・ジャーナリスト」という肩書きをよく目にするが、これにも疑問を感じることが多い。本来フォト・ジャーナリストというものは、「写真だけ」で物事の本質を伝えることができるジャーナリストであるべきで、それだけ力のある写真を撮れる実力がなくてはならないはずだ。

それなのに、記事を書いて写真も撮ればみなフォト・ジャーナリストだと勘違いしている人があまりに多すぎる。そういう人達は、単に「カメラをもった記者」であって、フォト・ジャーナリストではないだろう。

これも、写真というものを軽視しているからこそ、簡単にフォト・ジャーナリストなどと名乗れるのではないだろうか。。。

ここ数日、写真の扱いに関する職場でのごたごたもあって、苛立つことも多かった。

そんなわけで、自分のことはまったく棚に上げて、日頃感じていた疑問を綴ってしまいました。



(お知らせ)
先月従軍取材をしたイラクでの写真、トリビューンのサイトに掲載されました。
http://www.chicagotribune.com/ramadi




石油プロジェクト掲載(2)

2006-07-30 05:56:32 | 報道写真考・たわ言
石油プロジェクトが掲載された日曜版を手にとった。

大方きちんと仕上がっていたが、やはり表紙の写真には不満が残る。これはもうわかっていたことなので仕方がないが、こんな事情があった。

表紙写真の選択については、僕らフォトグラファーと管理職編集者達とのあいだで意見の別れることが多い。フォトグラファーは当然自分たちのベストの写真を表紙に選ぶが、上司たちは「分かりやすい」写真を使いたがる。これが一致している時は問題ないのだが、そうはいかないときのほうが多い。今回もその例に漏れず、表紙写真の選択ではかなり揉めた。結局管理職に決定の権限がある訳で、僕としては不本意な写真の選択をされてしまったというわけだ。

まあ、前回のリベリア特集のときのようにページ数の大幅削減があったわけでもないし、印刷もきれいにでているので、これでよしとすべきか。。。自分自身ですべてをこなして出版しない限り、100パーセント自分が満足できるものはできないのだから。

ウェブサイトのほうでは紙面では使われなかった写真もすべて掲載されています。

http://www.chicagotribune.com/oil








石油プロジェクト掲載

2006-07-28 16:16:17 | 報道写真考・たわ言
昨年秋から始めた石油プロジェクトが、遂に明後日の日曜版で特集掲載されることになった。

ナイジェリア、イラク、アラブ首長国連合、ベネズエラ、そして国内のルイジアナと、各産油地からシカゴ郊外にあるガソリンスタンドまで輸送されてくる石油を追いながら、それぞれの土地で暮らす人間たちの生活を取材した記録だ。

僕がこのプロジェクトのための最後の撮影をベネズエラで終えたのが2月。それからすでに5ヶ月が経っているが、先日レポーターがようやく長編の記事を仕上げ、来週の掲載にこぎつけた。

しかし、紙面のレイアウトのことで、今週はかなりの悶着があった。

規模の大きい新聞社だけに、管理職クラスのそれぞれ肩書きのついた編集者が5-6人おり、みながそれぞれ自分たちの好みをいいだして収集がつかなくなる。フォトグラファーの僕と、担当編集者、そしてレイアウト・デザイナーの3人で話し合っている時は見栄えのいい紙面ができているのに、それが上層部の手に渡ったとたんに意見がまとまらなくなるのだ。

「シェフ(料理人)が多すぎるんだ」

同僚の一人がこんな状況をうまい言葉で言い当てた。

僕らが現場に出て、ベストを尽してつくりあげた写真と記事を「素材」だとしよう。そして「料理人」である編集者がその「素材」をつかって紙面をつくりあげる。いい「素材」があり、腕のいい料理人一人が手をかければ素晴らしい料理(紙面)ができあがるのに、多くの料理人がそれぞれ好き勝手に素材に手をつけるので、料理がめちゃくちゃになってしまう。まさにそんな状況になっていた。

しかしそれも今日で終わり。今晩には最終のページ印刷に入るはずだ。自分ではまだ納得のいかない部分も少なくないが、カラー印刷の資金面や広告との兼ね合いなどは、僕がいくらあがいてもどうなるものでもない。とにかく時間と手間をかけたこの取材の成果が発表できることが待ち遠しい。

それでもやはり、不安は残る。印刷は綺麗にでるだろうか?最終段階で誰かがおかしな紙面変更をしていないだろうか。。。?日曜の朝に紙面を手に取るまではまだ数日落ち着くことができないのだ。






仲間の死

2006-06-28 00:54:17 | 報道写真考・たわ言
悪いニュースが届いた。

リベリアの内戦中に取材を共にしていたスウェーデン人のカメラマンが、先週ソマリアで殺されたという。

マーティンと言う名のこのビデオ・カメラマンは、肝の据わった奴で、銃弾の飛び交う前線で地面にひれ伏しながら共に撮影した仲だった。

悲しい。。。というよりも、ショックだ。

ごく最近イスラム派が政権をとったソマリアで、大群衆の集まった政治集会を取材中、狙われて撃たれたらしい。

単に外国人だったという理由で。。。

今月あたまには、CBSのテレビクルーが、イラクで米軍に従軍中、路上に仕掛けられた爆弾で死傷した。カメラマンとサウンドマンが死亡、レポーターが重傷をおった。

その重傷をおったレポーターは、キンバリーという女性記者。僕は去年イラクで彼女と一緒に従軍をした経験がある。

彼女はとりあえず一命はとりとめたものの、このニュースを聞いた時はさすがに動揺した。

いやなことが立て続けに起こっている。

明日、いや、もう12時を回っているので、正確に言えば今日、僕はイラクに向けて出発する。




豊かな食生活

2006-06-06 11:00:23 | 報道写真考・たわ言
先日のブログを書いたあと、少しまた考えてみた。

たしかに食べ物の選択肢があることは恵まれているとは思うが、だからといって別に他国の食べ物を知らないからといって、それが不幸というわけでもない。

マクドナルドやバーガーキングなどのファストフードや、ストアにあふれているジャンクフードなんて、身体に悪いだけで、そういうものが手に入る環境にいることのほうが逆に不幸だも思う。

よく考えてみれば、リベリアのムスの家族のように、冷蔵庫も持っていない人々にとっては肉や魚の保存ができない。だから生ものは食べる日に食べる分だけ市場から買ってくることになる。訳のわからない保存料などがはいっているわけでもないし、冷凍されたものより新鮮なのは確かだ。

これはちょっと極端な理論かもしれないけれど、そういう添加物のはいっていない新鮮な食材に舌の慣れているムスやファトゥが、こちらの料理の味に拒絶反応を示した、ともいえるのではないだろうか。

そういう点では、ファストフードや冷凍ディナーで生活しているアメリカ人たちよりも、選択は少ないにしても、ムスたちのほうが実はずっと豊かな食生活をおくっているといえるのかもしれない。。。





仕事の意義

2006-06-01 18:43:13 | 報道写真考・たわ言
アフリカにいる知人からメールが届いた。

彼女は西アフリカで国際協力関係の仕事をしているのだが、文面にはこんな彼女の気持ちが綴ってあった。

「世界中に開発ワーカーがたくさん働いているはずなのに紛争も貧困も悪化する一方で、自分の仕事を空しく感じてしまいます」

彼女の気持ちはよく理解できる。

戦争や飢饉、貧困問題はなくならないし、そういう視点からみれば世界が良くなっているとはとても思えないからだ。彼女のように、身を粉にして弱者のために働いている人にとっては、歯がゆいものがあるのだろう。

開発ワーカーに限らず、僕らのようなジャーナリストにしても同じことだ。世界中で大勢のジャーナリストが働いているにも関わらず、状況が良くなっているとは思えない。

僕らも貧困地域の取材などでよくこんな言葉を投げつけられる。

「お前らが何度取材にきたり、写真を撮ったりしたって、俺たちの生活は全然変わらないじゃないか!」

僕らのような仕事をしていると、その仕事に対するはっきりとした結果というものは見えにくい。しかし、だからといって仕事に対して空しさを感じてしまっては少し悲しすぎるだろう。

僕は彼女にこんなような返事をだした。

「確かに状況は良くなっていないかもしれないけれど、もしあなたのような開発ワーカーや、ジャーナリストがいなかったら、現状はもっと悪くなっていたと思います。。。」

僕らの仕事は、世界のプラスにはなっていないとしても、少なくともマイナスになることは食い止めているんじゃないか、と。

そうでも思っていないと、こんな仕事の意義など見出せやしない。


情と理屈

2006-05-29 07:30:41 | 報道写真考・たわ言
「人の心は情によって動くようにできている。。。」

読んでいた雑誌のコラムのなかのこんな言葉が目に入った。

理屈ではなく、情で納得してこそ人は行動するものだ、ということらしい。

なるほどなあ、と思った。

僕はかなり理屈っぽいほうなので、人と話をしていても、相手を納得させるために理図目になることがよくある。文章を書いていても理屈がきちんとしていないと、どうも居心地が悪い。

しかしその反面、自分で言うのもなんだけれど、かなり情にもろいほうだとも思う。だから、それを押し殺しながら、相手と話をしなくてはならないような状態は一番つらい。

アメリカで生活をするようになったのも、自分が理屈っぽくなった理由のひとつかもしれない。

こちらでは日本と違って、物事に白黒をはっきりつけたがるし、ディベート(議論)にしても、きちんとした論理でもって相手を説き伏せることが「有能」とされるので、そこに「感情」のはいる隙はあまりない。ビジネスでは特にそれは顕著だろう。

それでも、理屈を曲げても、「情熱」とか「同情」といったものに人間が動かされることも少なくないはずだ。それがすなわち情なのだ。

リベリアの子供たちに対する募金が集まっていることも、それは写真が直接人々の情に訴えたからだろう。僕が文章でくどくどとこの国の現状を説明していたとしたら、人々は頭では理解したとしても、お金をだす程までに子供たちに思いを寄せてくれただろうか?

理屈だけでもとりあえずビジネスは成り立つかもしれない、しかし、それが人間関係である以上、情の存在は無視できないし、情がからむことによって、その結びつきは遥かに強くなるはずだ。

こんなことを書きながら、結局なんだかまた書いてることが理屈っぽくなってるなあ、とふと気づいた。






事実と真実

2006-05-02 20:27:06 | 報道写真考・たわ言
報道写真家という仕事をしていて、いつも気になっている言葉がある。

「真実を撮る」という言いまわしだ。

人からコメントされることもあれば、インタビューをされた後の原稿に「真実を撮るカメラマン」などと書かれることもある。正直言って、これはかなり心外だ。気づいたときは必ず訂正してもらうように申し出ているが、世間では人々が「真実」という言葉を随分安易に使っているなあと感じてしまう。

まあ言葉の定義にもよるだろうが、僕としては報道写真家が撮るのは「真実」などではなく、「事実」に過ぎないと思っている。真実などそう簡単に見えるものではないし、普遍的なものでさえないだろう。立場や価値観が変われば、真実それ自体変わってしまうようなものなのではないだろうか。読者が一枚の写真から想像を膨らませてその人なりの「真実」を追究するのは勝手だが、そこに写っているものは僕らの目の前に存在した単なる「事実」に過ぎないのだ。

だから僕は、カメラマンが「真実を撮りたい」とか「真実を追って」などというのを見たり聞いたりすると、なんだか胡散臭く感じてしまう。

最近ではコンピュータ技術の発達で、見抜くのも不可能に近いような写真合成なども簡単に創れるようになってしまったが、そういう例は別にして、基本的に写真は絵と違い、空想や想像ではつくりえない。そこに実在しているものしか写すことができないのだ。

僕ら報道写真家たちのできることは、「事実」を記録し、人々に伝えること。そこには「真実」云々などという観念的なものは含まれない。現実を伝えるメッセンジャーとしての役割があるだけだ。

苦手な文章

2006-04-19 08:29:15 | 報道写真考・たわ言
例のごとくまた忙しくなってきた。

日本にいる間は撮影しかしなかったので、写真の整理、たまっていた雑誌への原稿書き、今回東京でもらってきた新たな仕事などに追われている。

何事でもそうなのだろうが、文章もしばらく書かないでいると、いざ書き始めることを億劫に感じるようになる。僕はもともと書くのはあまり得意ではないし、好きでもない。ただ写真だけではどうしても伝えることができない部分もあるので、文章も書くようにしてきただけのことだ。

だから原稿を書く仕事がはいると、いつも気負ってしまうし、書くのが遅いので時間がかかる。とても疲れるのだ。

すこしでも書くことを日常にすれば慣れるかなあ、という狙いもあってこのブログもはじめたのだが、これさえも最近は忙しさにかまけてアップを怠っていたし、なんだか義務のように感じ始めてきて、面倒になっていたというのも正直なところだ。

そんなわけで、現在も数本文章を書く仕事がたまっているのだが、怠けていたせいでなかなか集中できない。パソコンに向かってもすぐメールチェックをしたり、写真の整理を始めてしまったりで、肝心の原稿がちっとも進まないのだ。

やっぱり僕は記者ではなくフォトグラファー。。。。というのも虚しい言い訳か。。。

読者より広告主

2006-03-24 20:26:14 | 報道写真考・たわ言
トリビューン誌の社長であるフィッツシモン氏から社員宛に社内メールが届いた。

昨年に引き続き経営があまり思わしくないことをあげ、これからどのような方針でやっていくべきかを簡単に述べてある。そのなかに、こんな一文があった。

「これから広告量をあげ、経営を向上させていくためには、いかに斬新な手段で広告主たちにアピールできるかにかかっている。。。」

「広告主たち???『読者』の間違いじゃないの?」あれれっと一瞬思ったが、すぐにやっぱりな、と納得。

新聞社といえども所詮はビジネス、広告がはいらなくては会社自体が成り立たなくなる。やはり読者よりも広告主のほうを向いてしまうのだろう。

トリビューンに限らず、広告収入にたよっている媒体ならどこでもこんなもんだ。だから、広告主の批判なんかできなくなるし、相手が得意先の大企業ならなおさらだろう。

以前ボストンヘラルドで働いているとき、こんなことがよくあった。動物愛護団体の活動家たちが、毛皮製品の販売に抗議してファイリーンズ(デパートメント・ストア)の入り口に座り込みなどをして毎年のように逮捕されていたが、僕らが取材していい写真を撮ってきても、ほとんどこの手の記事が新聞に載ることはなかった。いうまでもなく、メーシーズやファイリーンズなどの大手デパートは、車のディーラーシップとならんで新聞社にとって大口の広告主のひとつだからだ。

まあ、こんなことは新聞社の体質としてずっと続いてきていることだし、特に新しいことでもないのだが、こうして社長直々のメールで「広告主へのアピール」なんて説かれると、なんだか複雑な気持ちにもなる。

やはり僕ら現場で働く者たちにとっては、広告主のご機嫌をとるような紙面よりも、読者が納得できるような新聞であってほしいと思っているのだから。

ーーー

明日の飛行機で日本に帰ります。4月1日のちひろ美術館での対談をはじめ、いろいろ忙しくなりそうですが、適当に時間を見つけてブログアップします。






風邪?

2006-03-20 20:57:12 | 報道写真考・たわ言
気晴らしにとった休暇も終わり、明日からまた仕事にもどる。

とはいうものも、一昨日あたりから風邪をひいてしまったようで、体調がいまひとつ。。。喉の痛みがひどい。

これはちょっと珍しくて、いままで風邪といえば鼻水がでて咳がでるのが普通だったのだが、今回はそういう症状はいっさいなし。突然高熱がでたようで極度な悪寒に体が震え、そのあと喉に傷ができたかのようなするどい痛みが続いている。

今夜はもう熱も下がり体も楽になったし、明日の仕事には支障はないだろう。ただ喉のほうは直るまでまだ数日かかりそうだ。

今週末には日本に戻るので、その前にやることも山積みだ。まあ休暇をとってたんだから不満をいえる立場ではないけれど。


寝不足

2006-03-07 06:40:42 | 報道写真考・たわ言
寝不足が続いてつらい。

どういうわけか、ここしばらくゆっくり寝られなくなった。寝ても2時間程で眼が覚めてしまい、その後しばらく寝られなくなる。ようやくうとうとしても、また2時間程で目が覚めるの繰り返し。。。昨夜は午前3時過ぎまで寝られず、それでも6時には起きてしまった。

思い出す限り、こんなことはこれまでの人生一度もなかった。

どんな土地に出かけても、食う、寝る、だす、はしっかりしてきたし、自信もあった。こんな仕事をしていると、これらはもう必要条件だ。

運動をして身体が疲れていても、酒を適度に飲んでも、それでもよく眠れない。これまでこんな経験をしていないから、自分でもどう対処すべきかわからない。

ベネズエラから帰ってきてまだ1ヶ月ほどだが、もう随分長く感じられる。。。

早くまた取材にでたい、と思う。