報道写真家という仕事をしていて、いつも気になっている言葉がある。
「真実を撮る」という言いまわしだ。
人からコメントされることもあれば、インタビューをされた後の原稿に「真実を撮るカメラマン」などと書かれることもある。正直言って、これはかなり心外だ。気づいたときは必ず訂正してもらうように申し出ているが、世間では人々が「真実」という言葉を随分安易に使っているなあと感じてしまう。
まあ言葉の定義にもよるだろうが、僕としては報道写真家が撮るのは「真実」などではなく、「事実」に過ぎないと思っている。真実などそう簡単に見えるものではないし、普遍的なものでさえないだろう。立場や価値観が変われば、真実それ自体変わってしまうようなものなのではないだろうか。読者が一枚の写真から想像を膨らませてその人なりの「真実」を追究するのは勝手だが、そこに写っているものは僕らの目の前に存在した単なる「事実」に過ぎないのだ。
だから僕は、カメラマンが「真実を撮りたい」とか「真実を追って」などというのを見たり聞いたりすると、なんだか胡散臭く感じてしまう。
最近ではコンピュータ技術の発達で、見抜くのも不可能に近いような写真合成なども簡単に創れるようになってしまったが、そういう例は別にして、基本的に写真は絵と違い、空想や想像ではつくりえない。そこに実在しているものしか写すことができないのだ。
僕ら報道写真家たちのできることは、「事実」を記録し、人々に伝えること。そこには「真実」云々などという観念的なものは含まれない。現実を伝えるメッセンジャーとしての役割があるだけだ。
「真実を撮る」という言いまわしだ。
人からコメントされることもあれば、インタビューをされた後の原稿に「真実を撮るカメラマン」などと書かれることもある。正直言って、これはかなり心外だ。気づいたときは必ず訂正してもらうように申し出ているが、世間では人々が「真実」という言葉を随分安易に使っているなあと感じてしまう。
まあ言葉の定義にもよるだろうが、僕としては報道写真家が撮るのは「真実」などではなく、「事実」に過ぎないと思っている。真実などそう簡単に見えるものではないし、普遍的なものでさえないだろう。立場や価値観が変われば、真実それ自体変わってしまうようなものなのではないだろうか。読者が一枚の写真から想像を膨らませてその人なりの「真実」を追究するのは勝手だが、そこに写っているものは僕らの目の前に存在した単なる「事実」に過ぎないのだ。
だから僕は、カメラマンが「真実を撮りたい」とか「真実を追って」などというのを見たり聞いたりすると、なんだか胡散臭く感じてしまう。
最近ではコンピュータ技術の発達で、見抜くのも不可能に近いような写真合成なども簡単に創れるようになってしまったが、そういう例は別にして、基本的に写真は絵と違い、空想や想像ではつくりえない。そこに実在しているものしか写すことができないのだ。
僕ら報道写真家たちのできることは、「事実」を記録し、人々に伝えること。そこには「真実」云々などという観念的なものは含まれない。現実を伝えるメッセンジャーとしての役割があるだけだ。
誰かの真実は、他の人の真実ではない。私の常識は、他の人の常識ではなこともあると思います。
事実と真実。たしかに、安易に使う言葉ではないのかもしれないですね。
「情報を提供する側と受け止める側のギャップ」とともに、いろんな示唆がある事柄だなと感じました。
写真の持つ力については、写真家の森山大道さんもおっしゃっている通り、
写真は世の中の覆製である、
まずそこのところから始めないと、勘違いする、ということなのだと思います。
写真は、目の前に存在する世界がなくては、何も写しえない。
ただ、真実を追究したいという思いは、メディアに関わるものとして、持ちつづけなくていけないと思います。到達不可能かもしれませんが、そのことを自覚していなければ、報道機関としての存在意義がない。自省しつつ思います。
今回のブログは「報道写真家」としての高橋さんの率直な気持ちが聞けたようでうれしいです。
私も今まさに、現実に起こっている!!それを撮るのが基本じゃないかな・・・と思います。
その写真から何を感じとるかは、それこそ色々な意見があって当たり前です。人はみな違うのですから。
写真と言う媒体で伝える事が大切なのであって(文章でもよいのですが)伝えなければ何も始まりません。
ただ、やはりbluenoswさんがおっしゃる通り、
「表現者が切り取った一瞬の現実ですね」と言うのも
まさにその通りでしょうね。
それをふまえて、私は「高橋さんが切り取った事実」として写真を見ています。
真実は当人しか判らないものだと私は思っています。
それにしても、言葉の定義ってほんとうに難しいですね・・・
目にみえる情報を、それを“見た人”の心や、脳みそ、その人自身の価値観で判断していくもの。
そんな、(当たり前かもしれませんが、)基本的なことも、すぐ、人は忘れて、自分の価値観で判断してしまうことがあるのかもしれませんね、
たとえば、同じ「戦場の写真」を見たA,Bさんが居たとして、
A「戦争は酷い、大事な人を守るために俺は戦う。」
B「戦争は酷い、大切などの国の命も守るために、戦わずに済む方法を、(どれだけ難航するかもしれないけれど)模索し、実行しよう。」
人の目は、見たいモノを見、
人の目は、聞きたいことを聞く。
多面的に、いろいろな視点で、考えたり、思ったり、してみること。
それを私自身、大切にしていきたいと思います。
いろいろな価値観の複合体が「写真」を見つめ、感じ、動く。
その「現実・事実」に誰が、なんのために、どんな、「言葉」をつけていくかが、見えたとき、もう少し、世界は変わるのかもしれない。
怖ろしいけれど、目をみひらいて、学びたいです。
だから僕の場合O次郎さんとはちょっと意見を異にしていて、「真実」を追究しようという気持ちはあまり持っていないのです。仮にそういう気持ちを持っていたとしても、それは僕にとっての「真実」ではあるかもしれないけれど、他の人々にとっても同じであるとは思えないからです。
ぼくがこれまでに読んだ本の限りでは、キャパの写真は、おそらくニセモノだろう…という結論のものが多かったように感じています。
けれど、キャパの写真ほどひとびとに“戦争”を感じさせたものは、それまで少なかったとぼくは思っています。
客観報道という言葉もありますが、ぼくにはそれができる自信はありません。どうしても自分なりの見解や視点で撮れる写真は変わってしまうと思っています。
だからこそ高橋さんの言葉…駆け出しのジャーナリストのぼくにとっても強く響きました。現実を伝えるメッセンジャーとして、事実をしっかりとみつめ記録していけるようがんばります。