住処にテレビがなく、新聞も購読していない、ということはこれまでに何度も書いている。それでもたまにウエッブサイトでニュースを見たりする。かつて新聞を購読していた頃、最後のページの文化欄から読み始め、社会面に目を通して、特に訃報は念入りに読み、訃報をスクラップしていた時期もあったほどだ。それから2面に移り、「首相官邸」という前の日の首相の動向を見て、あとはその日の気分でいろいろ見て、最後に1面に辿りつくというのが自分としての普通の読み方だった。絶対に読まなかったのは社説とコラム。あの上から目線の文章はどうにも好きになれなかった。
さて、今ウエッブサイトで見ているニュースだが、必ず見るサイトは朝日新聞の「どらく」、そのなかでも「ひとインタビュー」は楽しみにしている。今最新の記事は柄本明のインタビューだ。毎回、それなりに面白い言葉を目にすることができるのは、記者の力量に負うところもあるのだろうし、インタビューされる人の個性にもよるのだろう。それにしても、今回はいつになく面白かった。
インタビューは彼が映画「悪人」に出演していることから、その役のことから始まっているのだが、話の主題は役者という仕事のことに移っていく。以下、注目した彼の言葉を引用しておく。
「誰かに何かを伝えようとした途端、そこでぶつかり合い、「なかなか伝えられないもんだ」と勉強するわけでしょう。表現しようとして逆に表現できないことに気づくこともあるし。結局、ずっとその繰り返しなんですよ、人生って。人間は欲望のかたまりで絶対満足なんてしない。不満と不安を抱えてずっと生きていく生き物でね。」
「僕は、職業っていうのは人を狂わすって感じがしてならないんだよね。社会はよく「自分の職業に誇りを持て」とか言うでしょ。その感覚が何とも人を狂わせるっていう気がしてしまう。」
「自分のやっていることはすばらしいと思った瞬間に、人はダメになってしまう。」
「人間の大事な何かっていうのは、そのアマチュア性にあると思うんです。これをやることでお客が来るとか、お金がもうかるとか、そういう邪念のないところで、純粋にとにかくやりたいから突き進む、突き詰めていく。そういうアマチュア性があるからこそ、プロとしての仕事ができるんじゃないかと。」
俳優というのは特に決まった定年のようなものはないが、給与生活者というのは定年というものがあるし、私のような業界では50歳くらいを過ぎればいつ解雇されても不思議は無い。ある程度の年齢に達すれば、意識するかしないかは個人差があるにしても、自ずと目の前にある仕事の終わりが見えてしまう。企業組織に属していれば、結局はその所属組織の信用と資本力の下で活動するので、自活する力というのはよほど自分で意識的に養成しない限りは培うことができない。そうした状況下で、用が済んだからといって、わずかばかりの退職金を掴まされて放り出されても途方に暮れるばかりだろう。組織のなかで機能単位としてしか生きてきこなかった身が、突然に社会のなかで個人として生きることになっても、そう柔軟に対応できるはずもない。なかには最期まで切り替えることができずに終わる人も多いと聞く。老人ホームで「部長」とか「専務」とか、その人の定年時点での呼称で呼び合う人たちが本当にいるのだそうだ。その時点で半ば痴呆が入っているのだろうが、「部長」だの「専務」だのという幻想看板にしがみついていないと、それが滑稽なこととは知りつつも、不確実性に満ちた現実社会のなかで自己というものを保持して生きていることができないという事情も理解できないわけではない。
自分が何者かである、という確信が自我とか自己とかいうものなのだろうが、それはあくまで自分自身の心情の問題であって、世間ではただそこにいる人というだけのことだ。人の一生というのは、結局は自分が何者でもないこと、自分が世の中というものを何も理解できていなかったということを悟って最期を迎えるのが真っ当な在り方だろう。人は生まれることは選べないが、生れればいつかは最期を迎えることは決まっている。その終わりへ向けてどのように着地するかということが、生きるということだから、「メメントモリ」などと言う人もいるわけだ。
生きる上では、生活の糧を得ることが大きな課題となるので、そこに仕事というものが必要になる。つまり、仕事は生と死の間をつなぐ手段なのだが、手段であるはずのことが自己目的化するというのはよくあることで、そこに柄本氏の言う「職業が人を狂わす」という現象が現れることになるのだろう。
仕事に普遍性があれば、仕事と人生を同一視しても特に支障はないのだろうが、「死ぬまで現役」というのは世にあるどの職業に関しても言えることではない。私のような企業人はマシなほうで、プロスポーツのように現役期間が短いものを職業にしてしまうと、短期間に一生分の糧を得るということが、意識するとしないとにかかわらず宿命付けられてしまっているかのように思い込んでしまうものなのではないだろうか。だから、そこに八百長だの賭博だのといったものが入り込む隙ができるのだろう。スポーツや芸能でしばしば話題になる薬物の問題も、それで生理的な快楽を得るということもあるのだろうが、その流通に関わることで本業以外の収入を得るといった経済的動機が強く働いているにちがいない。
逆に、職人と呼ばれるような人たちの世界になると、仕事と人生はほぼ重なるくらいに息の長いものになる。長い分、所得の獲得機会も単位時間あたりに換算すれば希薄化されたものになり、結果として必要以上に長い修行期間を余儀なくされるというようなことも起こるのだろう。確かに、人の感覚や動作のすべてを言語化して表現することはできない。「職人芸」と呼ばれる匠の世界が、勘とか微妙な感覚のような非言語要素という習得に時間を要するものに支えられているのは、それが必要だからでもあり、またそうした時間をかけて伝承することが許容されるだけの余裕のある時間軸を持った世界でのみ成り立つものだということでもある。
世界はおそらく人間が知覚できるよりも遥かに多くのことで成り立っている。人間はそのなかから人間として生きるに足るだけのものだけ感じ取ればよいわけで、そのように五感プラスアルファが出来上がっている。同じように犬には犬の世界があり、ゴキブリにはゴキブリの世界が広がっている。それを、人間の五感が全てとの前提で、それらを機械に置き換えれば、職人技など無くても同じくらい完成度の高いものが製造できる、という考え方でこれまでの社会は歩んできた。機械という再現性のあるものを使って大量生産を行えば、生産性が向上する分、生産物の単価は下がる。物価の低下は実質所得の向上でもある。その結果、我々の世界は、例えば100年前に比べれば便利になったかもしれない。しかし、便利になった、ということは、豊かになった、と言い換えることができるだろうか。
おそらく機械や生産システムを考え出した人たちは自分の仕事に満足しているはずだ。生産性の向上は自分の仕事の成果であり、その結果として自分が所属する企業組織の収益は向上し、自分の所得にも成果は反映されたことと思う。ひとりひとりがそれぞれの使命に忠実にそれぞれの世界での最適性を追求し、それぞれの組織がそれぞれに恩恵に浴した。どこにもおかしなところはない。しかし、全体として、我々はどれほど豊かになり、どれほど幸せになったのだろうか。
話が拡散してきたので、今日はもう書くのを止める。
ところで、「どらく」のこのシリーズで堀ちえみが登場した回があるのだが、その直後に彼女の離婚が公表された。インタビューの時点で既に離婚は秒読みだったはずだが、その離婚相手との出会いのことなどを楽しそうに語っていたりする。別に隠すほどのことでもないと思うのだが、芸能人というのは私生活を晒すことも商売のうちなので、晒すのにも適切な方法というものがあって、無闇に晒すわけにはいかないということなのだろう。離婚理由として夫婦間の所得格差が軋轢を生んだというようなことも言われているようだが、芸能人の高額所得の裏づけとなる価値とは一体何なのだろう。なにはともあれ、いろいろな意味でたいへんな仕事だとは思う。
さて、今ウエッブサイトで見ているニュースだが、必ず見るサイトは朝日新聞の「どらく」、そのなかでも「ひとインタビュー」は楽しみにしている。今最新の記事は柄本明のインタビューだ。毎回、それなりに面白い言葉を目にすることができるのは、記者の力量に負うところもあるのだろうし、インタビューされる人の個性にもよるのだろう。それにしても、今回はいつになく面白かった。
インタビューは彼が映画「悪人」に出演していることから、その役のことから始まっているのだが、話の主題は役者という仕事のことに移っていく。以下、注目した彼の言葉を引用しておく。
「誰かに何かを伝えようとした途端、そこでぶつかり合い、「なかなか伝えられないもんだ」と勉強するわけでしょう。表現しようとして逆に表現できないことに気づくこともあるし。結局、ずっとその繰り返しなんですよ、人生って。人間は欲望のかたまりで絶対満足なんてしない。不満と不安を抱えてずっと生きていく生き物でね。」
「僕は、職業っていうのは人を狂わすって感じがしてならないんだよね。社会はよく「自分の職業に誇りを持て」とか言うでしょ。その感覚が何とも人を狂わせるっていう気がしてしまう。」
「自分のやっていることはすばらしいと思った瞬間に、人はダメになってしまう。」
「人間の大事な何かっていうのは、そのアマチュア性にあると思うんです。これをやることでお客が来るとか、お金がもうかるとか、そういう邪念のないところで、純粋にとにかくやりたいから突き進む、突き詰めていく。そういうアマチュア性があるからこそ、プロとしての仕事ができるんじゃないかと。」
俳優というのは特に決まった定年のようなものはないが、給与生活者というのは定年というものがあるし、私のような業界では50歳くらいを過ぎればいつ解雇されても不思議は無い。ある程度の年齢に達すれば、意識するかしないかは個人差があるにしても、自ずと目の前にある仕事の終わりが見えてしまう。企業組織に属していれば、結局はその所属組織の信用と資本力の下で活動するので、自活する力というのはよほど自分で意識的に養成しない限りは培うことができない。そうした状況下で、用が済んだからといって、わずかばかりの退職金を掴まされて放り出されても途方に暮れるばかりだろう。組織のなかで機能単位としてしか生きてきこなかった身が、突然に社会のなかで個人として生きることになっても、そう柔軟に対応できるはずもない。なかには最期まで切り替えることができずに終わる人も多いと聞く。老人ホームで「部長」とか「専務」とか、その人の定年時点での呼称で呼び合う人たちが本当にいるのだそうだ。その時点で半ば痴呆が入っているのだろうが、「部長」だの「専務」だのという幻想看板にしがみついていないと、それが滑稽なこととは知りつつも、不確実性に満ちた現実社会のなかで自己というものを保持して生きていることができないという事情も理解できないわけではない。
自分が何者かである、という確信が自我とか自己とかいうものなのだろうが、それはあくまで自分自身の心情の問題であって、世間ではただそこにいる人というだけのことだ。人の一生というのは、結局は自分が何者でもないこと、自分が世の中というものを何も理解できていなかったということを悟って最期を迎えるのが真っ当な在り方だろう。人は生まれることは選べないが、生れればいつかは最期を迎えることは決まっている。その終わりへ向けてどのように着地するかということが、生きるということだから、「メメントモリ」などと言う人もいるわけだ。
生きる上では、生活の糧を得ることが大きな課題となるので、そこに仕事というものが必要になる。つまり、仕事は生と死の間をつなぐ手段なのだが、手段であるはずのことが自己目的化するというのはよくあることで、そこに柄本氏の言う「職業が人を狂わす」という現象が現れることになるのだろう。
仕事に普遍性があれば、仕事と人生を同一視しても特に支障はないのだろうが、「死ぬまで現役」というのは世にあるどの職業に関しても言えることではない。私のような企業人はマシなほうで、プロスポーツのように現役期間が短いものを職業にしてしまうと、短期間に一生分の糧を得るということが、意識するとしないとにかかわらず宿命付けられてしまっているかのように思い込んでしまうものなのではないだろうか。だから、そこに八百長だの賭博だのといったものが入り込む隙ができるのだろう。スポーツや芸能でしばしば話題になる薬物の問題も、それで生理的な快楽を得るということもあるのだろうが、その流通に関わることで本業以外の収入を得るといった経済的動機が強く働いているにちがいない。
逆に、職人と呼ばれるような人たちの世界になると、仕事と人生はほぼ重なるくらいに息の長いものになる。長い分、所得の獲得機会も単位時間あたりに換算すれば希薄化されたものになり、結果として必要以上に長い修行期間を余儀なくされるというようなことも起こるのだろう。確かに、人の感覚や動作のすべてを言語化して表現することはできない。「職人芸」と呼ばれる匠の世界が、勘とか微妙な感覚のような非言語要素という習得に時間を要するものに支えられているのは、それが必要だからでもあり、またそうした時間をかけて伝承することが許容されるだけの余裕のある時間軸を持った世界でのみ成り立つものだということでもある。
世界はおそらく人間が知覚できるよりも遥かに多くのことで成り立っている。人間はそのなかから人間として生きるに足るだけのものだけ感じ取ればよいわけで、そのように五感プラスアルファが出来上がっている。同じように犬には犬の世界があり、ゴキブリにはゴキブリの世界が広がっている。それを、人間の五感が全てとの前提で、それらを機械に置き換えれば、職人技など無くても同じくらい完成度の高いものが製造できる、という考え方でこれまでの社会は歩んできた。機械という再現性のあるものを使って大量生産を行えば、生産性が向上する分、生産物の単価は下がる。物価の低下は実質所得の向上でもある。その結果、我々の世界は、例えば100年前に比べれば便利になったかもしれない。しかし、便利になった、ということは、豊かになった、と言い換えることができるだろうか。
おそらく機械や生産システムを考え出した人たちは自分の仕事に満足しているはずだ。生産性の向上は自分の仕事の成果であり、その結果として自分が所属する企業組織の収益は向上し、自分の所得にも成果は反映されたことと思う。ひとりひとりがそれぞれの使命に忠実にそれぞれの世界での最適性を追求し、それぞれの組織がそれぞれに恩恵に浴した。どこにもおかしなところはない。しかし、全体として、我々はどれほど豊かになり、どれほど幸せになったのだろうか。
話が拡散してきたので、今日はもう書くのを止める。
ところで、「どらく」のこのシリーズで堀ちえみが登場した回があるのだが、その直後に彼女の離婚が公表された。インタビューの時点で既に離婚は秒読みだったはずだが、その離婚相手との出会いのことなどを楽しそうに語っていたりする。別に隠すほどのことでもないと思うのだが、芸能人というのは私生活を晒すことも商売のうちなので、晒すのにも適切な方法というものがあって、無闇に晒すわけにはいかないということなのだろう。離婚理由として夫婦間の所得格差が軋轢を生んだというようなことも言われているようだが、芸能人の高額所得の裏づけとなる価値とは一体何なのだろう。なにはともあれ、いろいろな意味でたいへんな仕事だとは思う。