7月27日付「暑中見舞い」で、今年の暑中見舞いは手書きにこだわって16通しか出さなかったと書いた。手書きに対する返信は手書きでないといけないと思うのか、はがきによる返信5通は全て手書きだった。昨日届いた5通目の主は、英国留学時代に同じ学生寮にいた人だ。といっても、その人は学生ではなく、ある大学の歯学部に籍を置く研究者で、当時は文部省の在外研究員制度を利用して研究者として活動されていた。手書きの文字というのは、達筆とか悪筆というようなこととは別に、驚くほど個性的だ。自分の書く文字もかなり癖が強いのだが、その先生の文字も個性的だ。文字で人柄がわかるのかどうか知らないが、私はその先生が書く字もその人自身も大好きなのである。昨日も届いたはがきをしばらく眺めていた。
人が生きる時間は限られている。その限られたなかで、果たしてどれほど多くの人と永続的な関係を構築することができるものだろうか。ちなみに、今年の暑中見舞いの相手16人は知り合ってからの期間の平均が20年で、一番長い人で29年、短い人で7年だ。単に知っているというだけではなく、自分の考えというようなものを交換できる相手というのは、それほど多くは得られないのではないだろうか。昨日届いたはがきを眺めながら、自分にとって交際可能な相手というのは、できれば直接対面できるような物理的かつ心理的な距離にある人、直接対面できなくても手書きの文字で通信できる心理的距離に居る人、くらいのものではないかと思った。
手書き文字による通信というのは、書かれている文面以上の情報量を擁している。音声との決定的な違いは、物事を表現するのに要する時間だろう。その時間の中身は書くという作業によって占められている部分もあるが、書くまでの思考と書きながら書いた文字を見て思考の修正が行われるという部分もある。書くほうが発信するまでにより多く思考するのである。そして、書いたものは残る。これも重要なことで、感情に流されて書いたものを読み直して没にする、ということもできる。墨やペンによる文字の場合は、筆圧の変化も文字に現れる。それは単なる癖に過ぎないこともあれば、感情の変化を表現している場合もある。もちろん、それは書いた本人にしかわからないかもしれないが、読むほうも想像くらいはできる。また、句読点の打ち方にも個性がある。点の多寡も、書き手の持つ「間」とか思考のリズムや習慣など何事かを表しているのだろう。
自分は書くことが好きだという所為もあるのかもしれないが、書いた文章によるやり取りが出来ない相手とは付き合うことが出来ないように思う。自分にとっての交際範囲は手書き文字による交流を図ることができる相手に限られるような気がする。そうは言っても、はがきや手紙を書く機会はそれほどない。暑中見舞いを書くのにGペンを買ったが、暑中見舞いを書いて以来使っていない。次に使うのは年賀状を書くときだろうか。しかし、そういうことではいけないと、昨日届いたはがきを眺めながら少し気持ちを引き締めた。
果たして手書きのはがきや手紙は私の生活を変えるだろうか。
人が生きる時間は限られている。その限られたなかで、果たしてどれほど多くの人と永続的な関係を構築することができるものだろうか。ちなみに、今年の暑中見舞いの相手16人は知り合ってからの期間の平均が20年で、一番長い人で29年、短い人で7年だ。単に知っているというだけではなく、自分の考えというようなものを交換できる相手というのは、それほど多くは得られないのではないだろうか。昨日届いたはがきを眺めながら、自分にとって交際可能な相手というのは、できれば直接対面できるような物理的かつ心理的な距離にある人、直接対面できなくても手書きの文字で通信できる心理的距離に居る人、くらいのものではないかと思った。
手書き文字による通信というのは、書かれている文面以上の情報量を擁している。音声との決定的な違いは、物事を表現するのに要する時間だろう。その時間の中身は書くという作業によって占められている部分もあるが、書くまでの思考と書きながら書いた文字を見て思考の修正が行われるという部分もある。書くほうが発信するまでにより多く思考するのである。そして、書いたものは残る。これも重要なことで、感情に流されて書いたものを読み直して没にする、ということもできる。墨やペンによる文字の場合は、筆圧の変化も文字に現れる。それは単なる癖に過ぎないこともあれば、感情の変化を表現している場合もある。もちろん、それは書いた本人にしかわからないかもしれないが、読むほうも想像くらいはできる。また、句読点の打ち方にも個性がある。点の多寡も、書き手の持つ「間」とか思考のリズムや習慣など何事かを表しているのだろう。
自分は書くことが好きだという所為もあるのかもしれないが、書いた文章によるやり取りが出来ない相手とは付き合うことが出来ないように思う。自分にとっての交際範囲は手書き文字による交流を図ることができる相手に限られるような気がする。そうは言っても、はがきや手紙を書く機会はそれほどない。暑中見舞いを書くのにGペンを買ったが、暑中見舞いを書いて以来使っていない。次に使うのは年賀状を書くときだろうか。しかし、そういうことではいけないと、昨日届いたはがきを眺めながら少し気持ちを引き締めた。
果たして手書きのはがきや手紙は私の生活を変えるだろうか。