熊本熊的日常

日常生活についての雑記

外国人労働者として思ったこと

2007年12月21日 | Weblog
私は今、外国人労働者である。外国人旅行者というのは気楽で結構なのだが、外国人労働者となると、生活にまつわる諸々の手続きが必要になる。これは難しいことではないが、面倒くさいことこの上ない。

今日はNational Insurance Numberというものを取得するための面接に出かけた。11月中旬に勤務先で税務関係の面談があり、その時にこの番号を取得するようにとの指示を受け、早速電話をかけて面接の予約をしたら、それが今日だったのである。

面接会場は職場から地下鉄を2路線乗り継いで30分ほどかかる場所にある。日本で言うならハローワークのような役所で、こちらではJobcentreplusという。指定された時間に受付を済ませ、指示に従って面接会場に行くと、そこには順番待ちの人々が大勢いた。その順番待ちの人々が座っている場所を取り囲むように机がいくつも配置され、面接官が座っている。面接のやりとりは、筒抜けである。

自分の順番を待つ間、他の人の面接の様子を見ていた。面接を受けている人は、殆どが私と同じ外国人労働者である。なかには英語を解さない人もいるが、面接官は手慣れた様子で、そのような人を相手にしていても、手際良く手元の書類に何事かを記入している。驚くことに、英語を解さないのに、ここで就労している人、あるいは就労しようとしている人が次から次へと面接を受けている。一体この人たちは、普段どのように生活をしているのだろうと、疑問に思うほどである。

ろくに言葉の通じないような国に来てまで働かねばならない事情とはいかなるものなのだろう。なかには大志と野望を抱いてやって来る人もあるだろうし、やむにやまれずやって来た人もあるだろう。私の場合は、いつまであるかわからないが、まだ、帰る場所はある。いざとなれば出ていくことができると思えば、たいがいのことは我慢ができる。それでも、日々無数の些細な不平不満の種が蓄積していく。帰る場所が無いとしたら、嫌でもこの地で生活を築いていかなくてはならない。言葉が通じない場所で生活することの不安や不満は容易に想像がつく。

改めて、今、自分が生きていることの不思議を思う。生まれる場所と時代が違えば、同じ身体的能力を備えていたとしても、全く違う人生がある。それは自分で選ぶことができないのである。自分が特別恵まれているとは思わないのだが、それでも今の自分があることを、自分を取り巻くあらゆることに対して、感謝しなければいけないと思うのである。