熊本熊的日常

日常生活についての雑記

「短い労働の日」(原題:Kirotki dzien pracy)

2009年07月17日 | Weblog
ある年代のポーランドの人々には特別な印象を与えるのだろうか。食糧品の価格が共産党によって統制されていた時代、ポーランドの地方都市で、その価格引き上げを機に暴動が起る。その暴動前後を中心にドキュメンタリー風にまとめられた作品である。

社会の変化を語るとき、発想としては大衆側の視線か権力者側のいずれかで物事が語られることが多いように思うのだが、本作の主人公はそれらの中間よりやや権力寄りと言える共産党の地方幹部である。彼が共産党内で出世する過程を簡略にまとめたものが作品の枕部分を構成し、その彼が共産党の地方幹部として暴動の矢面に立つ様が残りの部分の中核を成している。

共産党組織のなかで出世していく主人公の姿は溌溂として見える。それが作品の舞台である経済の破綻という状況になると、その意気揚々とした雰囲気は消えてしまう。党中央が食糧品価格を一気に5割から6割程度引き上げることを決定したとき、彼の立場が明瞭になる。党の決定を彼に変える力はなく、市民から見れば彼こそが権力の象徴で不平不満をぶつける対象である。権力側にあるものの、自分の支えにはならない権力と暴徒と化そうとしている市民たちとの板挟みになり、その場凌ぎの保身策に遁走するよりほかに、彼に現実的な身の処し方があるだろうか。

舞台はポーランドのとある地方都市であり、時代は30年ほども前、共産党だの民主化だのということも現代の日本で暮らしていれば現実性は希薄に感じられる。しかし、この作品のなかで展開されている主人公の数日間の行動の背景にあるのは、そうした地政学的な違いや文化の壁を超越した、人という生き物の普遍的な行動原理だと思う。結局、人は単独で存在することはできないということだろう。自己は他者があってはじめて認識できるものであり、自己を認識したらその存在の確かさを確認すべく欲求や欲望が湧き出てくる。自分を確かめるために社会を作り、権威という虚構を作る。虚構を構成する権力機構のなかに自分の位置を確保し、自己の存在の正当化を図る。自己を正当化するのは自己の外部にある権威という看板だ。そもそも実体の無いものを自己の存在根拠に据えるから不安がついて回る。不安を解消するために権力を行使して、自分を取り巻く人や者ごとが反応することを確認し続けなければならない。食卓でちゃぶ台をひっくり返してみせるオヤジも、独裁政権でこの世の春を謳歌する権力者も、やっていることは同じということなのだろう。人間というものは滑稽で哀しい生き物であるようだ。

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