熊本熊的日常

日常生活についての雑記

「美代子阿佐ヶ谷気分」

2009年07月18日 | Weblog
ある映画評で「裸体の存在感」ということを書いていた人がいた。なんとなく想像はついたが、実際に作品を観て、要するに主演女優の裸体がよかった、ということなのである。映画評として、その評論家の能力においては、そのようにしか書きようがなかったということなのだろう。確かに、この作品を観て、何事かまとまったことを語るというのは難しいとは思う。

私はこの作品の原作を読んだことはない。ただ「ガロ」という雑誌の雰囲気はなんとなく知っていたつもりである。昔、「通販生活」という雑誌というかカタログを定期購読していたことがあり、そのなかでつげ義晴の作品が掲載されていた。漫画といっても娯楽作品ではなく、コンテンポラリーアートの領域に入る文学のようなものだと思った。

この作品も愛のありかたを表現したものだと思う。愛というのは、自己保存のひとつの表現形ではなかろうか。いかにも相手を思い相手のために尽くすかのような表現をとりつつ、そこに投影されている自己を再確認する作業を「愛」と呼ぶような気がする。家族というのは自己が拡張された形態なのだろう。言動や行動の方法は様々だが、恋人どうしや家族の間での意思疎通というのは、突き詰めれば自分の欲求を押し付け合っているだけのように思えてならない。その均衡が保たれている状態が「円満」と呼ばれているもので、均衡が回復困難な程度にまで破綻した関係が「不和」ということではないのか。

均衡というのは結果論だ。自我のありようというのは人それぞれに異なる。だから欲求の内容も表現形態も各自各様だ。同じような表現形を持つ者どうしなら、その関係は欲求の表出合戦のようになってしまうだろうし、相手の表現に関するリテラシーが欠如していると、そもそも関係の発展は望めないだろう。恋愛の困難なところは、自我の在りようとか表現が微妙に重なる相手と出会い、しかも、その微妙な重なりを維持することにある。所謂「価値観」というものは、結局は自我の表現形態なのだと思う。

この作品では、安部と美代子の、傍目には支離滅裂に見える生活が、当事者にとっては秩序ある姿であったということが描かれている。秩序ある、というのは要するに美しいということだ。とても危うく見えるのに、ふたりは別れるどころか、その関係は時とともに強固になっていく。安部が精神分裂症を発病し、故郷で療養生活を送っているところへ、彼の作品の良き理解者でもあった雑誌の編集者が訪ねてくる場面がある。そのときに応対に出た美代子の佇まいは、生活の外見の過酷さに反して穏やかで足が地に着いているように見える。それは、互いが自分の内なる声に素直に生きてきたことに起因する自信のなせる技のようにも思える。屈折しているように見えるが、存外に素直な関係がそこに展開されているように、私には見えた。

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