熊本熊的日常

日常生活についての雑記

「扉をたたく人」(原題:The Visitor)

2009年07月24日 | Weblog
どのようなものでも、それだけがそこにあるのではなく、それを見たり使ったりする人との関係性のなかで、そのものの本質が規定されるのだと思う。自分のなかでは、良し悪しという価値の方向性は、そうした関係性の契機をどれほど持っているかということに因る。考えるヒントのようなものが多い映画が「良い映画」で、そうでもないものが「悪い映画」ということだ。尤も、同じものでも、自分がそこからどれほどのことを引き出すことができるかという能力に応じて違って見えるので、「悪い」ものに出会ってしまうというのは、結局は自分の責任でもある。

さて、「扉をたたく人」は良い映画の典型のようなものだ。映画評などでは、9・11以降、米国で強まった社会の狭量さへの批判、などと語られているようだが、「米国の」とか「アラブの」というような枠を超えた普遍性のある作品だと思う。

なによりもまず、主人公ウォルターの描写を通して、人はなぜ生きるのか、という問いかけを感じないわけにはいかない。主人公は一人暮らしだ。長年連れ添った妻に先立たれ、息子は外国に住んでいる。大学教授という職はあるが、受け持つ講義は週1コマ。論文や本の執筆もそれほどあるわけではなく、余計な仕事を頼まれても悉く断ってしまう。ピアニストだった妻が遺したピアノを手慰みに弾いてみるが、それはピアノがそこにあるからであって、ピアノを弾きたくて弾くわけではない。習慣としての生活はあるが、意志としての生活は無い。

印象的なシーンで、その後の物語の展開上、重要な伏線にもなっているのだが、学生が提出期限を過ぎたレポートを提出するためにウォルターの研究室を訪れる。彼は提出が遅れた理由を学生に尋ねるが、結局受け取りを拒否してしまう。学生はおとなしく引き下がるのだが、帰り際にウォルターの講義要項の発表が遅れていることを指摘する。自分がやるべきことをやらずに、相手だけに義務を押し付けるのは公正ではないではないかと暗に訴えているのである。ウォルターはそれには取り合わない。行為の不公正を、権力によって押し通してしまうのである。そこには個人の感情どころか、生身の人間というものの存在感が無い。規則があり、それを執行する権力があり、そのなかで事務的に物事が進行する現実がある。

合理性という言葉がある。理屈に合う、ということなのだろうが、既存の権威に盲従することを合理的と称していることが多いように感じる。規則は守らねばならない、のは社会の秩序を守る上で当然のことだろう。しかし、規則が社会の秩序を守るために作られたものならば、社会の現実が変化すれば、その変化に合わせて規則も見直されて然るべきだろう。世の中の法律や規則というのは社会の変化に合わせて見直されていると言えるだろうか。それがどれほど陳腐で現実から乖離したものになっていても、法律だの規則だのという「権威」を与えられたが最後、その陳腐に従うのが「理屈」にかなう、合理ということになっていることが少なからずあるのではないか。それは、法律だの規則だのということに限らず、地域のきまりごと、職場組織、家族のきまりごと、個人と個人の関係、個人の習慣のなかにも散りばめられて在るのではないか。合理的行動のつもりが、単なる習慣ということがいくらでもありそうに思う。そこに我々は様々な葛藤や歪みを抱えることになる。その歪みが限界を超えたところに悲劇が生まれるのではないだろうか。

社会を震撼させるような事件が起る度に、対処療法的な規制が敷かれる。再発防止のためには迅速な対応が必要なのだから、それは当然のことだろう。本来なら、そこで社会全体の仕組みが見直され、現状分析と問題点の洗い出しが行われ、応急処置を解除してより抜本的な改革が行われるというのが理想であると思う。しかし、現実は対処療法をパッチワークのように重ねているだけなのではないだろうか。

私が社会人になって最初に勤めた会社には独身寮があった。古い寮のなかには、畳敷の部屋があって、ものぐさい奴は万年床の生活になる。ある住人が布団を敷いたまま使い続けたら、なんとなく湿った感じがしてきたという。そこで彼は、湿った感じの布団の上にシーツを重ねて使い続けた。そのうち、また湿気ってきたので、またシーツを重ねた。そうしてシーツを重ねて使い続けているうちに、その寮が老朽化のために建て替えられることになり、彼も別の寮へ引っ越すことになった。果たして、布団を片付けてみると、布団の敷いてあった畳は腐り、キノコが生えていたという。

勿論、このキノコ噺は冗談だろうが、この部屋の生活のサステナビリティを守るためには、布団は毎日上げ下ろしをし、たまには陽に当てるなどして、内部に溜まった湿気や微生物を取り除き、部屋も毎日とは言わないまでも適当な間隔で掃除をする必要があるということだろう。思い出したように大掃除をするよりも、毎日の小掃除こそが生活の維持には重要なのである。

社会も、そこで暮らす人々の生活を守ろうとすれば、事件の有無にかかわらず、全体の仕組みを見直す必要があるのではないだろうか。習慣で流れていることを止めて、その習慣を見直すという意識的な行動が必要だということだ。

ニューヨークにあるウォルターの別宅に勝手に入り込んで生活していたシリア人のタレクは、ジャンベという太鼓の奏者として生活している。幼い頃に母親とともに米国へ渡り、そこで教育を受けて成長したのだが、手続き上の不備があって永住権を得ることができない。結果として不法滞在となっている。しかし、行政は彼の手続きの不備を容認しない。彼がウォルターの別宅で暮らすようになったのは、悪質な不動産業者に騙されたからであり、悪意があってのことではない。米国社会に対し何も脅威となるようなことはしていない、ように見える。

しかし、社会の仕組みというものは、その個人がどのような人間かということを問うことはない。その仕組みに合致した手続きを踏んでいるかいないかということだけが問題なのである。タレクの場合、シリア人が正規の移民手続きを経ずに長期間に亘って米国内に滞在しているという事実が米国の脅威ということだ。

前に書いたことと矛盾するが、現実の変化などいちいち検証することは不可能だし、我々の生活を滞りなく継続しようとすれば、問題が起ったときに、その応急処置を重ねるのが最も現実的な在り方なのだろう。人がそれぞれの存在を尊重しつつ社会で生きるということは難儀なことなのである。

自分の欲求や権利を当然のこととして生きるのと、多少なりとも自分の欲求や権利が満足されていることの幸運を感じながら生きるのとでは、物事の見え方が全くちがってくるのではないだろうか。この作品を観て、今、こうしてこの作品のことについて思い巡らしてみると、自分がこのようなくだらない駄文に時間を浪費しながら生きていられることの奇蹟を感じないわけにはいかない。

ところで、蛇足を承知で言えば「急いては事を為損じる」ということも考えた。タレクが強制送還になるきっかけとなったのは、地下鉄の無賃乗車を疑われて警察に逮捕されたことだ。なぜ、そうなったかといえば、その日はタレクが午後5時に家具を取りに行くという約束があり、それに遅れまいと慌てて地下鉄の自動改札を抜けようとしたときに持っていた楽器のケースの紐が改札機に引っ掛かって、改札を跨ぐような格好になってしまったところを警戒中の私服警官に見つかったからである。ニューヨークの地下鉄がどの程度の運転間隔で運行されているのか知らないが、もし、入線してきた電車を気にせずに、落ち着いて改札を通れば、難なく通り抜けることができ、逮捕されることもなかっただろう。逮捕されなければ不法滞在がばれることもなかったのだから、強制送還という事態に至ることもなかった。長々と書いたが、要するに、慌てるとロクなことはないのである。陶芸や木工をやっていて特に感じることなのだが、気持ちが急くと、どうしても仕事が雑になる。それは間違いなく作品の仕上がりに影響する。仕事では納期があって悠長なことを言っていられないということもあるかもしれないが、私の場合は趣味なので急ぐ理由は何もない。それで、時間に余裕の無いときは、躊躇せずに作業を先送りすることにしている。いい加減なことをして後で不愉快な気分を味わうよりは、気持の余裕を守ったほうが納得のいく結果になることが多いと思うのである。

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