熊本熊的日常

日常生活についての雑記

「ポー川のひかり」(原題:Cento Chiodi)

2009年08月11日 | Weblog
おそらく主人公はイエスに見立てられているのだろう。聖書の世界を現代を舞台に展開させると、この作品のような情景になるのかもしれない。

原題は「100本の釘」。その釘は、少なくとも私の頭の中の「釘」のイメージとは違った姿をしている。イタリアの金物屋で「釘をください」と言うと、当然のようにこの作品のなかで使われているようなものを出してくるものなのだろうか。ここに登場する釘は、西洋絵画でキリストの磔刑を描く時に、その手足に打ち込まれているものと同じ、四角い断面の、あまりきれいに成形されていない、黒い大きな釘である。冒頭の場面で、図書館の一室の床とテーブルと柱の一部に古い本がその釘で打ち付けられている。その釘の所為で、古い書物はキリストを連想させる。人々の罪を一身に背負ったキリストの姿を。

この事件現場を前にした検事が言う。
「天才芸術家の作品という感じ」

芸術が、人々に未だ認識されていない世の中の「真実」を示すものであるとするなら、既製の知を象徴する古い権威ある書物が、由緒ある図書館の、そのまた特別な部屋のなかで磔刑のように釘で打ち抜かれているのは、確かに芸術だろう。イエスが磔刑になったのは、本当は何故なのか、イエスは何者で、神とは何なのか、そうしたことに対する製作者の洞察がこの作品を通じて提示されているようにも見える。

私はキリスト教どころか、宗教そのものと無縁に暮らしているのだが、それでもこの作品は監督であり脚本も担当しているエルマンノ・オルミが説教をしているかのように饒舌に感じられる。まるで近所の頑固ジジイの小言を聞きかされているようでもある。うんざりするのだが、不思議と心地よい。

人がどう在るべきか、何が善で何が悪なのか、というようなことに正解はないだろう。自然の一部でしかない人間が、まるで世の中の主であるかのように「在るべき」論を語ること自体、傲慢なことと言えなくもあるまい。ただ、自我というもの持って生きている限り、「私」を中心に世界を視るのも自然なことである。視点を変えれば「自然」も変わるということだ。

印象深い台詞があった。大学で宗教哲学を専門分野とする教授をしている主人公が夏休み前最後の講義を終えた後、図書館で仕事をしていると、講義に出席していたインド人の女子学生がやって来る。彼女は主人公に質問があって来るのだが、そのやりとりのなかでこのようなものがあった。
教授「なぜ宗教哲学を?」
学生「なぜか子供のころから世界を救いたいと」
教授「子供なら当然だ。やがて自分を救うだけになる」

生きるということは、どのように生きたいと思うかはさておき、結局のところは自分の欲望を追求し続けることなのではないだろうか。自我を膨らませ、自分にとって都合の良い世界を「在るべき世界」として他人に押しつけ合う。結果として均衡が保たれれば平和となり、均衡が破れれば紛争や独裁に陥る。生きる現実から遠いところに居る、例えば子供のような存在は、素朴に調和を信じることができるが、現実のなかで自分にとっては大きく傍目には些細な問題に関わり続けていれば、自我の膨張とともに自我に囚われて人間が矮小になっていく。

矮小な自分の眼に見えるものが世界の全てだと考えれば、世の中は恐ろしく窮屈で息苦しいものになってしまう。かといって、自分は実は何も知らないと自覚してしまえば、不安に苛まれて生きることが恐ろしくなってしまう。

主人公である新進気鋭の宗教哲学者は、神がこの世を救わなかったことに絶望したかのように見える。ところで、この世はそもそも救われるべきものなのだろうか。

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