熊本熊的日常

日常生活についての雑記

「中国の陶俑」(出光美術館)

2009年08月13日 | Weblog
結局は何の役にも立たないことに、どれほどの富をつぎ込むことができるか、ということが文明の偉大というものなのだろう。

今から2,500年ほど前から、中国では時の権力者の埋葬に際し、副葬品として当時の技術の粋を集めて作られた陶製の人形が使われるようになったのだそうだ。人形、と言っても、人の姿もあれば家畜もあり、家屋もあれば調度品もある。それ以前は人形ではなく実物が殉葬されていたのだそうだ。

いくら技術や技巧の粋を集めたといっても実物には及ばないであろうが、それにしてもそうしたものが単に埋められるためだけに作られていたというのは、やはり驚異的なことだと思う。細かいことを言えば、素材の流通や技術・技巧の開発、技能者への報酬を通じて何がしかの波及効果はあっただろう。しかし、総じてみれば単なる消費蕩尽の域を出なかったのではないだろうか。注目すべきは、巨万の蕩尽を可能としていた権力が存在していたことだ。

今、こうして眺めれば陶製の人形でしかないのだが、均整のとれた造形や施釉の妙にただならぬものが感じられる。そう思って見る所為なのだろうが、時代を超えて美しいと評されるものには、どこか狂気じみたところがあるようにも見える。狂っていても美しいほうがよいのか、狂うくらいなら凡庸なほうがよいのか、狂っていると評されても自分で納得できるほうがよいのか、狂っていると言われるくらいなら不満を残しても自分を曲げるほうがよいのか。それこそ、正解の無いことだろう。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。