木工は小型書架の枠部分のヤスリがけを終え、仮組まで進捗。杉や松の材を使って何かを作るとき、一番好きな工程がヤスリがけだ。組む前の部品の状態で磨くのも、組みあがったものの仕上げで磨くのも、どちらも良い。磨くほどに肌触りも木目の見た目も艶やかになる。その変化を観察するのも楽しいし、なによりも実際に触った感触がなんとも言えない。
木の形も木目も何らかの必然性があって、現在のような姿になったのだろう。そこに至るまでに気の遠くなるような時間を費やしている。所謂「木」が地球の歴史のなかのどのあたりで登場するのか知らないが、人類が登場する遥か以前であることは間違いないだろう。それほどの時間をかけて、今、ここに在るために意味のある形態を残し、余計なものは全て捨て去った姿で我々の前にあるということだ。
そうした自然の造形を眺めていると、人が考えることなど取るに足りないことのように思われてくる。世間では、「権利」や「利益」を求めることばかりに熱心で、目先の飯の種に執着するのが、今や当然であるかのようだ。木材を眺めたり摩ったりして、その姿形に惚れ込んでしまうと、ちょっとした思い付きを「知的所有権」だの「知的財産」だのと騒ぎ立てる姿は醜悪を通り越して滑稽にすら見えてくる。人の一生など高々数十年程度のものでしかない。その微細な世界のなかで、今、自分にとって本当に大切なことが何なのか、本当に必然性のある判断とはどのようなものなのか、杉や松の角材を磨きながら思ってみたりする。
木の形も木目も何らかの必然性があって、現在のような姿になったのだろう。そこに至るまでに気の遠くなるような時間を費やしている。所謂「木」が地球の歴史のなかのどのあたりで登場するのか知らないが、人類が登場する遥か以前であることは間違いないだろう。それほどの時間をかけて、今、ここに在るために意味のある形態を残し、余計なものは全て捨て去った姿で我々の前にあるということだ。
そうした自然の造形を眺めていると、人が考えることなど取るに足りないことのように思われてくる。世間では、「権利」や「利益」を求めることばかりに熱心で、目先の飯の種に執着するのが、今や当然であるかのようだ。木材を眺めたり摩ったりして、その姿形に惚れ込んでしまうと、ちょっとした思い付きを「知的所有権」だの「知的財産」だのと騒ぎ立てる姿は醜悪を通り越して滑稽にすら見えてくる。人の一生など高々数十年程度のものでしかない。その微細な世界のなかで、今、自分にとって本当に大切なことが何なのか、本当に必然性のある判断とはどのようなものなのか、杉や松の角材を磨きながら思ってみたりする。