おそらくどこの職場でも似たような光景が展開するのだろうが、今日は男性社員にはチョコレートが配られる。私は夜間シフトなので、夕方に出社すると席にいくつかの包装が置かれている。それはそれとして嬉しいことには違いない。しかし、昼間のシフトの人達の殆どが、まだ退社前で席にいるのである。ただ席に置かれるよりは、直接渡してもらったほうが、より気分が良い。或る人は、直接手渡してくれただけでなく、そのときのやり取りのなかで、「これ美味しいんだよ」と語っていた。ということは、彼女は自分が食べて美味しいと思ったものを贈ってくれたということだ。
以前にも書いた記憶があるが、職場に持ち寄られる土産物のなかには酷いものもある。職場への土産物が単なる義理であるということぐらいは誰でも知っていることだ。しかし、どうせ人に食べてもらうなら、美味しいとか珍しいとか面白いなどと言って喜んでもらうものでなくては、そもそも贈る意味など無いのではないか。どうせ義理なのだから形さえ整えばいいという姿勢は、おそらくその人の土産物や贈り物に対することだけでなく、対人関係全てに共通する何事かを物語っているのだと思えてならない。
「これ美味しいんだよ」という一言は、言った本人にとっては何気ないことだったと思う。しかし、そう言えるものを贈るという感性に、心温まるものを感じないではいられない。たかが義理チョコ、されど義理チョコだ。そうした一見どうでもいいようなことも含めて、人の一挙手一投足には、その人の知性と感性とが反映されているはずだ。
「チョコ」で思い出したが、骨董の世界では蕎麦猪口が曲者だそうだ。何がどう曲者なのか、私が語るよりも専門家の言葉を引用させていただいたほうがわかりやすいだろう。
「ソバチョコは骨董の入門編だとよく言われるけれど、トンデモナイ。こういう数が多く、一見何ともない物の選択こそ、その人の人間性が表れる。だからソバチョコは楽しい物ではあるけれど、一番怖い物でもある。」
(坂田和實「ひとりよがりのものさし」新潮社 平成18年11月25日第5刷 57頁)
「ソバチョコ」のところを他のものに代えていくらでも応用できるような気がする。
以前にも書いた記憶があるが、職場に持ち寄られる土産物のなかには酷いものもある。職場への土産物が単なる義理であるということぐらいは誰でも知っていることだ。しかし、どうせ人に食べてもらうなら、美味しいとか珍しいとか面白いなどと言って喜んでもらうものでなくては、そもそも贈る意味など無いのではないか。どうせ義理なのだから形さえ整えばいいという姿勢は、おそらくその人の土産物や贈り物に対することだけでなく、対人関係全てに共通する何事かを物語っているのだと思えてならない。
「これ美味しいんだよ」という一言は、言った本人にとっては何気ないことだったと思う。しかし、そう言えるものを贈るという感性に、心温まるものを感じないではいられない。たかが義理チョコ、されど義理チョコだ。そうした一見どうでもいいようなことも含めて、人の一挙手一投足には、その人の知性と感性とが反映されているはずだ。
「チョコ」で思い出したが、骨董の世界では蕎麦猪口が曲者だそうだ。何がどう曲者なのか、私が語るよりも専門家の言葉を引用させていただいたほうがわかりやすいだろう。
「ソバチョコは骨董の入門編だとよく言われるけれど、トンデモナイ。こういう数が多く、一見何ともない物の選択こそ、その人の人間性が表れる。だからソバチョコは楽しい物ではあるけれど、一番怖い物でもある。」
(坂田和實「ひとりよがりのものさし」新潮社 平成18年11月25日第5刷 57頁)
「ソバチョコ」のところを他のものに代えていくらでも応用できるような気がする。