熊本熊的日常

日常生活についての雑記

小三治独演会

2010年10月23日 | Weblog
今日、小三治のまくらのテーマは水と栗とそれらに絡んだことだった。水に絡んでバリ島の話があり、バリ島に至る話として夕張の話があり、夕張に関連して「幸せの黄色いハンカチ」の話がある。跳躍する話の面白さ、とでも言うのだろうか。マクラを本にまとめて何冊か出ているが、それが漫談とは違うのは、視点が噺家のものだからなのだろうか。

水道水をそのまま飲用できるのは、世界でも11カ国だけなのだそうだ。私は若い頃にあちこち外国を観光したが、土地の水道水を飲んだ経験はあまり無い。それは直近のロンドン生活でも同じだった。初めての土地を訪れると、とりあえず商店街やショッピングセンターを覗いてみるのだが、そこに広大なミネラルウォーター売り場がある場合、その土地は水道水を直接飲まないのだと判断して、飲用水はミネラルウォーターを利用することにしている。この理屈でいくと、ロンドンではミネラルウォーターが1ポンド200円としても日本よりも遥かに安かったこともあり、そのよりどりみどりの水売り場から一番安いハウスブランドの5リットルボトルを買って使っていた。このブログにもある1985年当時のインドでは水売りの屋台があり、そこで喉が渇いているときにはコップ1杯単位で水を買っていた。今から思えば無謀なことだ。しかし、この時を含め過去に3回インドを訪れているが、腹をこわしたことは一度も無い。1984年にオーストラリアを訪れたとき、ちょっとしたもののはずみで民家に転がり込んだことがある。キャンベラという町でのことだったが、その家庭の水道水は白濁していた。それをその家の人たちは何事も無いかのようにコップに入れてそのままゴクゴク飲んでいた。私も飲んでみたが、ビミョウな味だった。

ミネラルウォーターには様々なブランドがあり、飲み比べてみれば味の違いはかなりはっきりしている。ボトルには詳細な採水地情報が記載されていることが多く、いかにも健康的な印象を受ける。しかし、果たして本当にそうなのだろうか。疑えばきりがないが、おそらく多くの人はミネラルウォーターが瓶詰めされるところを確認した上で購入しているわけではあるまい。人間の身体は約7割が水なのだそうだが、どのような水で出来た人であるかによって、人格とか性格が決まったりするのだろうか。そうだとしたら、水だけでなく水分を含んだものすべてについて、少し慎重に選ばないといけないのではないだろうか。

師匠は栗に凝っているのだそうだ。土地によって栗の味が違うという。今まで栗の産地を気にしたことが無かったが、土地が違えば味が違うのは当然だが、土地の個性と品種の個性とを比べたときに、どちらが強いかということも考慮する必要があるのではないか。とはいえ、言われてみて栗の味の違いというものが気になり始めた。全く偶然だが、今日、落語会の帰りに実家へ寄ると、母の友人からおすそ分けで頂いたという栗があり、それを私が頂いた。明日、茹でて食べることにする。

ところで、今日の演目は以下のようなものだった。
柳家三之助 「棒だら」
柳家小三治 「初天神」
(中入り)
柳家小三治 「一眼国」

「棒だら」:開口一番が真打というのは、初めてかもしれない。なんとなく得した気分になってしまう。「棒だら」というのは古い江戸言葉で、酔っ払いを蔑んで言うときに使うのだそうだ。いや、「使った」のだそうだ。明治初期には既に使われいなかったそうで、死語というより化石語だ。また「棒だら」を「棒鱈」と書いて、芋で作った鱈もどきという意味もあるそうだ。冷蔵技術の乏しかった時代は鮮魚は貴重品でもあり、さまざまな代用品があったそうだ。サゲのところで喧嘩の仲裁に入る板前が胡椒を手にしたまま板場から座敷にやってくるが、彼は板場で棒鱈を作っている最中だった、というのが噺の設定でもある。

「初天神」:よく前座噺で使われるネタだが、今日のお目当てはマクラが長いので、噺のほうが前座噺になってしまうことは自然な流れというものだろう。しかし、この人が演ると、そう思って聴く所為もあるのだろうが、噺の厚みのようなものがあって、胸に響く。噺の面白さというのは、物語の内容だけで決まるものではなく、長いとか短いということで決まるものではなく、結局は話し手の力で決まるということがよくわかる。

「一眼国」:サゲが深い。何が常識で何が非常識なのか、何が正しくて何が間違っているのか、実はそういう絶対的な価値尺度というのは存在しないのではないか、ということまで考えようと思えば考えることのきっかけになる。


開演 15:00
閉演 17:40

会場 志木市民会館 パルシティホール