偶然、ニッチ市場で営業を続けているCDショップの記事を見つけた。記事のなかの写真にあるゲルニカは私が大学生の頃の音楽ユニットで、あのレコードは見覚えがある。ウィキペデイアのゲルニカの項には記述が無いが、「音版ビックリハウス」にも参加している。私はその「音版ビックリハウス」を持っていたが、何年も前にヤフオクか楽天のオークションで売ってしまった。今から思えば、また聴いてみたい気もするが、カセットテープなので持っていたとしても聴くことができない。確か落札した人の住所は箱根だった。ゲルニカを知ったのは「ビックリハウス」を知ったからで、「ビックリハウス」を知ったのは、通っていた大学の学園祭のイベントだった。大教室を使ったトークショーでパネラーが当時の「ビックリハウス」編集長であった高橋章子、同誌に「ヘンタイよいこ新聞」という投稿コーナーを主宰していた糸井重里、同誌にも参加していて「幻想としての経済」などで話題を呼んでいた栗本慎一郎、あとひとりかふたりパネラーがいたような記憶がある。もちろん、トークショーの内容など全く記憶に残っていないが、面白かったという印象はあって、その後しばらく「ビックリハウス」を買っていたし、単行本として発行された「ヘンタイよいこ新聞」も持っていた。「ビックリハウス」のイベントが池袋西武の屋上で開かれたことがあったが、そこにゲルニカも出演していた。戸川純が美しかったことは今でも記憶に生々しい。そこで高校時代の同級生にばったり会ったことも憶えている。彼は高校時代は生徒会長だったのだが、会長選挙のとき、自分の宣伝ソングを作って選挙戦を戦った。その歌が、忘れようにも忘れられないくらいにしょーもないものだったのだが、そのあまりのくだらなさが功を奏したのだろう。
そんなことはともかく、なぜこの記事が興味を引いたかといえば、ここに書かれていることと似たような話を、以前、ボストンに本社のある会社に就職するときに、面接のなかで私が語ったのを思い出したからだ。自分にとっては初めての転職だったのだが、勤務地は東京でも入社のための面接などはボストンにまで出向かなければならなかった。ボストンまでの往復の航空券とボストンでの宿泊は先方が負担してくれた。当時の勤務先では休暇を取り、時差もあるので3泊5日でボストンまで往復した。ボストンでは就職後に同僚となる人たちから個別に10人ほど面談を受け、ボストン郊外にあるなんとか研究所というところにほぼ終日缶詰にされて心理テストを受けた。その心理テストはアポロ計画で宇宙飛行士候補を選考する際に使われたものが基になっているものだそうで、似たような質問が執拗に繰り返され、それにどこまで根気強く回答を続けられるかというようなものだった。発狂しそうな試験だったが、なんとか通過して転職を果たした。後に転職を重ねてから知ったのだが、このような入社選考は当時の所属長の趣味のようなものだ。欧米企業では人事権は各部門の部門長が掌握しているので、採用方法も部門長が決める。当時、私を採用した上司は、かなりマニアックな人で、要するに変わり者だったのである。私が入社して数ヵ月後に引退されてしまったので、この入社時の面談が彼と話を交わした最初で最後の機会となってしまった。
このとき面談をした同僚のひとりとの会話で、CDショップを例にした商品管理のことが話題になり、彼はPOSシステムの話をしたのに対して、私はそれに反対する意見を語った。この記事のなかで中野氏が語っているようにPOSは在庫を落して商品の回転率を上げるはずのツールだ。確かに、客が買いたいものを心に決めているなら、売れるはずの商品だけを店頭に置いたほうが売り場の利用効率は高いように見えるかもしれない。では、客はいかなる情報を基に買いたいものを決めるのだろうか。「はじめに購買意欲ありき」というのでは、そもそも店舗を構える意味が無いだろう。店頭に並ぶ商品を眺めながら、客は自分自身の音楽歴や友人知人との会話などを思い起こし、「これ聴いてみようかな」という気持ちを起こすのではないか。そのためには、店舗の品揃えは刺激的でなければいけないはずだ。店舗というのは物理的な制約があるのだから、闇雲に品揃えを広げるわけにはいかない。こういう音楽が好きなら、こういうものも気に入るのでは、というようなある程度の誘導や秩序が必要だろう。そのために店員がいるはずだし、店舗そのものの存在意義もあるはずだ。店舗は購買意欲を喚起する場所でなければ商売にならないのである。喚起するには、そのものが売れなくとも、関連する別の商品への需要を刺激するようなものもあるだろう。それは売上情報としては「不良在庫」になってしまうが、「売上」を喚起しているというところまで、果たしてPOSでわかるだろうか。データというのは、利用する側が価値を与えたり見い出したりするものであって、データそのものに価値があるのではない。「売上」とか「利益」という結果だけに目を奪われると、なんのためにその店が存在しているのかという本源的なことが見失われてしまうのではないだろうか。
音楽CDに限らず、実店舗とネット販売との使い分けができていないと思われることが多いように感じる。それは商売をする側に、自分が扱っている商品がどのようなものなのかという知識や認識が欠落しているということではないだろうか。記事のなかで中野氏が例に挙げていた話が示唆に富んでいる。
「…… だって「この魚なに?」って聞かれて「知らん!」と答える魚屋はあり得ないですよ。」
身の回りを眺めれば、その「あり得ない」ことがたくさんある。
これまでに何度か、自分で店をやりたいというようなことを書いた。それは「あり得ない」ことが蔓延している世の中だからこそ、自分の考える世界というものが受け入れられる余地があるのではないかと思うからだ。もし、その店ができたとして、さらにその店の経営が落ち着いたとしたら、その次は、どこかに山を丸ごと買って、その山を使ってやってみたいことがある。妄想は果てしなく広がる。
そんなことはともかく、なぜこの記事が興味を引いたかといえば、ここに書かれていることと似たような話を、以前、ボストンに本社のある会社に就職するときに、面接のなかで私が語ったのを思い出したからだ。自分にとっては初めての転職だったのだが、勤務地は東京でも入社のための面接などはボストンにまで出向かなければならなかった。ボストンまでの往復の航空券とボストンでの宿泊は先方が負担してくれた。当時の勤務先では休暇を取り、時差もあるので3泊5日でボストンまで往復した。ボストンでは就職後に同僚となる人たちから個別に10人ほど面談を受け、ボストン郊外にあるなんとか研究所というところにほぼ終日缶詰にされて心理テストを受けた。その心理テストはアポロ計画で宇宙飛行士候補を選考する際に使われたものが基になっているものだそうで、似たような質問が執拗に繰り返され、それにどこまで根気強く回答を続けられるかというようなものだった。発狂しそうな試験だったが、なんとか通過して転職を果たした。後に転職を重ねてから知ったのだが、このような入社選考は当時の所属長の趣味のようなものだ。欧米企業では人事権は各部門の部門長が掌握しているので、採用方法も部門長が決める。当時、私を採用した上司は、かなりマニアックな人で、要するに変わり者だったのである。私が入社して数ヵ月後に引退されてしまったので、この入社時の面談が彼と話を交わした最初で最後の機会となってしまった。
このとき面談をした同僚のひとりとの会話で、CDショップを例にした商品管理のことが話題になり、彼はPOSシステムの話をしたのに対して、私はそれに反対する意見を語った。この記事のなかで中野氏が語っているようにPOSは在庫を落して商品の回転率を上げるはずのツールだ。確かに、客が買いたいものを心に決めているなら、売れるはずの商品だけを店頭に置いたほうが売り場の利用効率は高いように見えるかもしれない。では、客はいかなる情報を基に買いたいものを決めるのだろうか。「はじめに購買意欲ありき」というのでは、そもそも店舗を構える意味が無いだろう。店頭に並ぶ商品を眺めながら、客は自分自身の音楽歴や友人知人との会話などを思い起こし、「これ聴いてみようかな」という気持ちを起こすのではないか。そのためには、店舗の品揃えは刺激的でなければいけないはずだ。店舗というのは物理的な制約があるのだから、闇雲に品揃えを広げるわけにはいかない。こういう音楽が好きなら、こういうものも気に入るのでは、というようなある程度の誘導や秩序が必要だろう。そのために店員がいるはずだし、店舗そのものの存在意義もあるはずだ。店舗は購買意欲を喚起する場所でなければ商売にならないのである。喚起するには、そのものが売れなくとも、関連する別の商品への需要を刺激するようなものもあるだろう。それは売上情報としては「不良在庫」になってしまうが、「売上」を喚起しているというところまで、果たしてPOSでわかるだろうか。データというのは、利用する側が価値を与えたり見い出したりするものであって、データそのものに価値があるのではない。「売上」とか「利益」という結果だけに目を奪われると、なんのためにその店が存在しているのかという本源的なことが見失われてしまうのではないだろうか。
音楽CDに限らず、実店舗とネット販売との使い分けができていないと思われることが多いように感じる。それは商売をする側に、自分が扱っている商品がどのようなものなのかという知識や認識が欠落しているということではないだろうか。記事のなかで中野氏が例に挙げていた話が示唆に富んでいる。
「…… だって「この魚なに?」って聞かれて「知らん!」と答える魚屋はあり得ないですよ。」
身の回りを眺めれば、その「あり得ない」ことがたくさんある。
これまでに何度か、自分で店をやりたいというようなことを書いた。それは「あり得ない」ことが蔓延している世の中だからこそ、自分の考える世界というものが受け入れられる余地があるのではないかと思うからだ。もし、その店ができたとして、さらにその店の経営が落ち着いたとしたら、その次は、どこかに山を丸ごと買って、その山を使ってやってみたいことがある。妄想は果てしなく広がる。