聖徳太子研究の最前線

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飛鳥・斑鳩を歩いて聖徳太子時代の状況を考察:和田萃『古代天皇への旅』(4)「聖徳太子」

2023年08月18日 | 論文・研究書紹介

 順序がずれましたが、最後の「10 聖徳太子」です。

 まず、冒頭で名前を論じた部分のうち、「厩戸皇子」は7世紀以後のものであって、それ以前は「厩戸王」だとするのは、和田氏には珍しい凡ミスです。

 『日本書紀』では、厩戸皇子についいては、分注で「豊耳聡聖徳、豊聡耳法大王、法主王」をあげていますが、「法主王」は仏教信仰が篤かったことを示すとしたうえで、「これらはいずれも在世中に生じた呼称だろう」と述べます。

 「法主」は中国では寺における講経の代表者を指すため、講経の巧みな方という意味でそう呼ばれたのだろうということは、論文やこのブログでも何度も指摘しました(たとえば、こちら)。

 ただ、「豊耳聡聖徳」も認めるとなると、「聖徳太子」という呼称は後代のものにせよ、「聖徳」という呼称は生前からのものということになるので、これは大胆な記述ですね。私は賛成ですが。「太子」という語も使われていたでしょう。

 さて、廐戸皇子は上宮に住んでいたとされ、「上宮王」とも呼ばれたため、昭和61年から平成2年にかけて桜井市教育委員会がおこなった発掘調査で上之宮(うえのみや)地区から遺跡が検出されたため、これが厩戸皇子の上宮だとする報道がなされたものの、和田氏は、この地域は阿倍氏の本拠地であり、また用明天皇の磐余池辺雙槻宮から遠いため、問題であるとします。

 和田氏は地名解釈の難しさを述べるにあたり、以下のような例をあげます。まず、石舞台古墳のすぐ横に明日香村上居(じょうご)の集落があります。幕末に暁鐘成がこの近辺の状況を書き残した『西国三十三所名所図会』の当時は、石舞台は天武天皇のモガリに関連する遺跡とされており、これは地名の「上居」を天武天皇の「飛鳥浄御原宮」の「浄御」と結びつけたためでした。

 その上居集落の上手には上宮寺があり、寺伝では聖徳太子の上宮の地と伝えている由。また多武峯へのぼる細川谷の入り口にも「上居(じょうご)」の集落があり、多武峯から北へ下ったところに「下居(おりい)」の集落があり、さらに桜井市にも上宮寺があります。これは太子信仰に由来するものであり、その地が厩戸皇子の上宮であったかどうかは、また別な話なのです。

 上之宮遺跡については、6世紀末から7世紀初めと見られる大型建物の跡が発見され、その後、調査が重ねられたものの、和田氏はその遺跡から出た木簡は内容と書風から見て、7世紀第3四半期のものと判断します。

 「厩戸(うまやど)」という名については、地名の「うまや」に出入り口を示す「と」が付いたものと見ます。「戸」も「門」も清音の「ト」ですが、複合語の後の部分となった場合は濁音となる場合があり、「うまやど」はその例だとするのです。

 問題はこの「戸」です。6世紀後半から、飛鳥戸(あすかべ)・春日戸(かすがべ)・高安戸(たかやすべ)といった「地名+戸」の氏族が河内に設置されます。「厩戸」もこの例の一つだとすると、「うまやべ」となるはずです。

 すると、「戸」は入り口ということになりますが、地名で「厩」とつくのは、軽の地から見瀬丸山古墳に至るゆるやかな坂、厩坂です。軽には蘇我稻目の「軽の曲殿」があり、その稻目の娘が欽明天皇の妃となって産んだ子たちの長子が大兄皇子、後の用明天皇です。

 ですから、大兄皇子が住んだ宮が、厩坂の「戸」に当たる場所だったので、厩戸皇子と命名されたと和田氏は考えます。というのは、大和には、「地名+戸」という形の古い地名が散見されるからです。 

 和田氏はその他様々な問題に触れていますが、ここで斑鳩周辺に移ります。古墳の分布から見ると、交通の要衝であった富雄川流域や大和川の流域には物部氏が勢力を伸ばしており、大県南遺跡は製鉄の遺跡でした。この地の一部である斑鳩に穴穂部皇子が宮を構えていたのは、皇子を天皇候補としようとした物部守屋の中河内の本拠地に近いためであったと和田氏は説きます。

 法隆寺の側にある藤ノ木古墳の石棺には、若い二人の男性が葬られており、一人はその穴穂部皇子だと推定されています。法隆寺の塔頭に伝わる記録によれば、近世では藤ノ木古墳を崇峻天皇の御廟とされているそうですが、和田氏はそれは伝承の混乱と見ます。