推古朝を研究するには、隋や百済・高句麗・新羅などとの外交がきわめて重要であって、これらの諸国との関係のあり方を示すものの一つが、外国使節への饗応の仕方です。これについて検討した論文が、書物として刊行されました。
浜田久美子『日本古代の外交と礼制』「第一章 「賓礼」以前ー七世紀までの外交儀礼ー」(吉川弘文館、2022年)
であって、2月に出たばかりです。
これまでの外交史の研究では、倭王は卑弥呼の時代から外国使節の前に姿を現さず、献物受納や国家意志の口頭伝達には群臣層が介在していたことが明らかになっています。浜田氏は、『日本書紀』は外国との関係を外交儀礼を描く形で表現しているとし、高句麗・新羅との外交の例を検討しますが、その使節は倭国の都には入っていません。
しかし、敏達12年(583)に百済から派遣された日羅の場合は、吉備児島屯倉で慰労された後、対外交流施設であった難波館で天皇に対して甲を献上した結果か、大和の阿斗桑市に客館を作ってそこに日羅を住まわせたことが示すように、新羅使や高句麗使が入れなかった大和に入ることができています。
浜田氏はこれは、日羅が大伴金村を「我君」と呼び、敏達天皇に対して「臣」と名乗るような倭系百済官僚だったためと見ます。それでも、阿斗に派遣されて日羅に国政を問うたのは阿倍目臣などであって、日羅は敏達天皇の宮には至っていないのです。
これらのことから見て、倭国の外交儀礼は、外国使節を迎える迎労と、献物進上に対する饗応で構成されていたとしたうえで、群臣は大王と中小氏族を結びつけ、大王の意思形成を支配層全体で保証する役割を果たすという佐藤長門氏の合議制論から見て、群臣は大王と外国使節の仲介の役割もになったと説きます。
浜田氏のこの論文で興味深いのは、倭国における外国使節の扱いだけを見るのではなく、朝鮮諸国において倭国の使者がどのような儀礼で迎えられたかについても注意していることです。そして、これらを検討したのち、群臣を介在させる倭国の外交儀礼は、「朝鮮三国の影響のもとで形成されたと考えられる」(212頁)と結論づけます。
これが変化するのは、隋との外交が始まったためです。浜田氏は、推古朝ではまだ隋朝の儀礼は導入されておらず、南朝の儀礼に基づく礼制が整備されたとする榎本淳一氏の説を紹介し、古い時代からの連続性に着目した点を評価しつつも、推古朝の外交儀礼の変化は、やはり遣隋使が体験した儀礼に基づくと推測します。
裴世清による隋側の視点の記述と『日本書紀』の記述が一致しない点があることは良く知られていますが、裴世清を額田部比羅夫が海石榴市衢で飾馬を引いて迎えているのは、郊外で外国使節を迎える郊労であって、宮室の整備により儀礼の場が宮中に移ったことにともなって導入されたとします。
また、新羅・任那の使節については、額田部比羅夫が膳臣大伴を率いて阿斗河辺館に引率しており、これは日羅が滞在した阿斗桑市館に近く、河川交通の要所にあったと推測されると説きます。
そして重要なのは、裴世清の場合、8世紀の新羅使や渤海使と同様、拝朝時には使いの旨を口頭で伝達していることです。君主間の伝達は文書でおこなうものの、使者との意志伝達は口頭なのであって、しかも、裴世清は推古には直接対面していないとします。
倭王は群臣からの文書進上儀には参加するものの、外国使節には会わないのであって、浜田氏は、この形を隋の儀礼と倭国の儀礼の複合としたうえで、主客がそれぞれ自らに都合の良い解釈をする余地を残し、ともかく国書を受け取ったという儀礼の成果が共有できたとします。
だからこそ、裴世清は隋帝の宣諭を伝える役目を果たせたことになるのです。これは、631年に来日した唐の使節が礼を争い、唐の皇帝の命を伝えることができないまま帰国したのとは対照的です。
一方、献物進上については、6世紀には客館に派遣された群臣が献物を調査し、その後、宮で王に献上されていて外国使節は同席していません。この点は皇極朝になっても続きます。
浜田氏は、隋との外交をきっかけとして朝庭で外交儀礼がなされるようになったものの、饗宴以外は定着せず、従来からの饗応が外交儀礼の中心であったとします。
7世紀までの外交儀礼は、中国や朝鮮半島の儀礼の影響を受け、それに類似している空間や構成で行われたものの、中国の礼制を完全に導入することはなく、中国風な賓礼は形成されなかったというのが、氏の結論です。となると、推古朝はちょっと異例ということになりますね。
浜田久美子『日本古代の外交と礼制』「第一章 「賓礼」以前ー七世紀までの外交儀礼ー」(吉川弘文館、2022年)
であって、2月に出たばかりです。
これまでの外交史の研究では、倭王は卑弥呼の時代から外国使節の前に姿を現さず、献物受納や国家意志の口頭伝達には群臣層が介在していたことが明らかになっています。浜田氏は、『日本書紀』は外国との関係を外交儀礼を描く形で表現しているとし、高句麗・新羅との外交の例を検討しますが、その使節は倭国の都には入っていません。
しかし、敏達12年(583)に百済から派遣された日羅の場合は、吉備児島屯倉で慰労された後、対外交流施設であった難波館で天皇に対して甲を献上した結果か、大和の阿斗桑市に客館を作ってそこに日羅を住まわせたことが示すように、新羅使や高句麗使が入れなかった大和に入ることができています。
浜田氏はこれは、日羅が大伴金村を「我君」と呼び、敏達天皇に対して「臣」と名乗るような倭系百済官僚だったためと見ます。それでも、阿斗に派遣されて日羅に国政を問うたのは阿倍目臣などであって、日羅は敏達天皇の宮には至っていないのです。
これらのことから見て、倭国の外交儀礼は、外国使節を迎える迎労と、献物進上に対する饗応で構成されていたとしたうえで、群臣は大王と中小氏族を結びつけ、大王の意思形成を支配層全体で保証する役割を果たすという佐藤長門氏の合議制論から見て、群臣は大王と外国使節の仲介の役割もになったと説きます。
浜田氏のこの論文で興味深いのは、倭国における外国使節の扱いだけを見るのではなく、朝鮮諸国において倭国の使者がどのような儀礼で迎えられたかについても注意していることです。そして、これらを検討したのち、群臣を介在させる倭国の外交儀礼は、「朝鮮三国の影響のもとで形成されたと考えられる」(212頁)と結論づけます。
これが変化するのは、隋との外交が始まったためです。浜田氏は、推古朝ではまだ隋朝の儀礼は導入されておらず、南朝の儀礼に基づく礼制が整備されたとする榎本淳一氏の説を紹介し、古い時代からの連続性に着目した点を評価しつつも、推古朝の外交儀礼の変化は、やはり遣隋使が体験した儀礼に基づくと推測します。
裴世清による隋側の視点の記述と『日本書紀』の記述が一致しない点があることは良く知られていますが、裴世清を額田部比羅夫が海石榴市衢で飾馬を引いて迎えているのは、郊外で外国使節を迎える郊労であって、宮室の整備により儀礼の場が宮中に移ったことにともなって導入されたとします。
また、新羅・任那の使節については、額田部比羅夫が膳臣大伴を率いて阿斗河辺館に引率しており、これは日羅が滞在した阿斗桑市館に近く、河川交通の要所にあったと推測されると説きます。
そして重要なのは、裴世清の場合、8世紀の新羅使や渤海使と同様、拝朝時には使いの旨を口頭で伝達していることです。君主間の伝達は文書でおこなうものの、使者との意志伝達は口頭なのであって、しかも、裴世清は推古には直接対面していないとします。
倭王は群臣からの文書進上儀には参加するものの、外国使節には会わないのであって、浜田氏は、この形を隋の儀礼と倭国の儀礼の複合としたうえで、主客がそれぞれ自らに都合の良い解釈をする余地を残し、ともかく国書を受け取ったという儀礼の成果が共有できたとします。
だからこそ、裴世清は隋帝の宣諭を伝える役目を果たせたことになるのです。これは、631年に来日した唐の使節が礼を争い、唐の皇帝の命を伝えることができないまま帰国したのとは対照的です。
一方、献物進上については、6世紀には客館に派遣された群臣が献物を調査し、その後、宮で王に献上されていて外国使節は同席していません。この点は皇極朝になっても続きます。
浜田氏は、隋との外交をきっかけとして朝庭で外交儀礼がなされるようになったものの、饗宴以外は定着せず、従来からの饗応が外交儀礼の中心であったとします。
7世紀までの外交儀礼は、中国や朝鮮半島の儀礼の影響を受け、それに類似している空間や構成で行われたものの、中国の礼制を完全に導入することはなく、中国風な賓礼は形成されなかったというのが、氏の結論です。となると、推古朝はちょっと異例ということになりますね。