聖徳太子研究の最前線

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近代の価値観や思い込みを排した斬新な女帝史、ただ厩戸の記述は曖昧:義江明子『女帝の古代王権史』

2022年04月19日 | 論文・研究書紹介
 近年、古代史で研究が進んだ分野の一つが女性史です。その好例である義江明子氏の『推古天皇::遺命に従うのみ 群言を待つべからず 』(ミネルヴァ書院、2020年)については、このブログでは異例のことながら、3回にわたって紹介しました(こちら)。

 その義江氏が同書に続き、より広い範囲を扱って入手しやすい新書の形で出したのが、  

義江明子『女帝の古代王権史』(ちくま新書、筑摩書房、2021年)

です。

 前著と重なる部分も多いのですが、女帝を「お飾り」とか「中継ぎ」と見る立場に反対し、その意義を強調しています。何しろ、最初の女帝である推古天皇以来、奈良時代の孝謙(称徳)天皇まで、八代で6人の女帝が誕生しており、この時期の天皇の男女の割合は半々なのですから、女帝は例外的な存在ではなく、普通だったと見るほかないと義江氏は説くのです。

 東アジアの状況にも注意する義江氏は、倭の五王について、『宋書』は倭讃・倭王倭斉・倭王珍など名をあげており、倭という姓の父系出自集団が支配していたように見えますが、これは高句麗の高姓、百済の余姓などと同様、冊封用の名であって、当時の倭王は父系の世襲ではなかったと論じます。

 こうした王は、有力首長の中から実力者が選ばれてその地位に就くものであって、国としては連合政権であり、複数の有力首長が支えたのであり、卑弥呼を「弟」が補佐したことについても、当時の倭語の「おと(おとと)」は肉親とは限らず、同年代の年少者を指すと指摘するのです。

 『上宮聖徳法王帝説』が「五天皇は他人を雑うること無く天の下治(しろ)しめす」と述べているのは、欽明天皇以下の五代は一つの血統のみで王位継承がなされたということであり、この結果、世襲王権が成立したと論じます。この点は、ブログでも取り上げた水谷氏の主張と同意見ですね(こちら)。

 その欽明天皇は、『日本書紀』の即位前紀によれば、皇位に推薦されたところ、自分は幼年であって先帝の后であった山田皇后が「政事」に通じているとして譲ろうとしたと記されています。そして重要なことは、「群臣」たちが候補の中から適任者を選んでいることです。

 推古天皇もそうした状況で群臣に適任と判断されて推挙され、王位についたのであって、隋使の裴世清に面会していないのは女帝であったためなどと言われるものの、古代の大王は男性の場合も外国使節とは会わないのが原則だったとします。

 また『隋書』が「倭王の姓は阿毎、字は多利思比孤」と述べており、男王としているという点については、「タリシヒコ」の「ヒコ」を「彦」と見て厩戸を指すといった説もあるが、「ヒ」は有力王族の自称であり、「コ」はもともとは「集団のメンバー」の意味であり、男女を区別しないとする自説を紹介します。
「彦」が天皇名に用いられるのは、神武天皇以下、実在の不確かな古い時代の人物に限られており、確実なのは奈良時代の聖武天皇からであることに注意します。

 そして、推古は「仏教に帰依する東方の王(天子)として、中国の菩薩天子に向き合おうとした」(83頁)と述べます。このあたり、推古天皇を単なる「中継ぎ」と見る旧説に対する反発が強すぎて、馬子・厩戸の役割に触れなさすぎるようにも見えます。

 これは、「憲法十七条」や三経義疏の内容について踏み込んだ検討がなされていないこととも関連するでしょう。「憲法十七条」の場合も、論文やこのブログで私が書いてきたように出典に注意して読めば、当時の倭国の状況をいかに反映しているか分かるはずです(こちら)。

 厩戸については記述が少ないですね。「厩戸の死と二つのモニュメント」と題する節において、法隆寺金堂の釈迦三尊像銘と「天寿国繍帳銘」をの意義を説き、「天寿国繍帳銘」では欽明と推古だけが天皇と称されている点などから見て、天皇号が制度化されたのは天武・持統朝頃からであるにしても、推古朝あたりから「始用/試用する場面があった。とみる余地はあるのではないか」(92-3頁)と述べるに止まります。

 その他、推古や以後の女帝たちについて有益な検討がなされていますが、問題は、推古はどの程度の漢文や仏教の素養があったかということです。

 推古が判断力に富んだすぐれた人物であったことは疑いいありませんが、百済から交代で派遣されて来た学者や僧、あるいは、そうした者たちに習って漢文文献に親しんでいた倭国の少数の人々、渡来系氏族の知識層などから漢文を習い、中国や百済・高句麗などの制度に関する文献を自分で読み、新しい方針を提案できたのか。

 奈良時代になると、中国古典に通じている女性たちが出てきますが、6世紀末の倭国にあって、推古は若い頃、どのような教育を受けたのか。これは馬子についても言えることです。三経義疏はその個性的な文章によって同じ人物が書いたことが分かります。

 しかも、古代韓国の変格漢文と違い、うねうねと長く続く和風の変格漢文であって百済・高句麗の僧が書いたのでないとなれば、そうした師の僧の講義に基づいて厩戸皇子が書いたことは間違いありません。そうした人物であれば、外交や国政について意見がなかったとは考えられないことです。

 義江氏の著書は、推古天皇や以後の女帝に関するすぐれた研究ですが、馬子や厩戸皇子の役割に触れなさすぎることも事実です。むろん、それは義江氏以外の研究者の仕事ということになるのですが。