聖徳太子研究の最前線

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斑鳩宮選定は風水説に基づくか: 岩本次郎「『いかるが』と古代史」

2011年03月06日 | 論文・研究書紹介
 斑鳩や播磨国鵤庄における方形地割の存在の解明など、聖徳太子関連の地の地理的研究を先導してきた岩本次郎氏が、帝塚山大学を定年で退職するにあたって行なった最終講義が、

岩本次郎「『いかるが』と古代史--「いかるが」に関する基礎的省察--」
(『奈良学研究』第9号、2007年1月)

です。

 最終講義という性格上、これまでの研究のまとめが中心ですが、なぜ斑鳩の地が選ばれたかについて、交通の要衝という面以外に、重要な見方が示唆されています。それは、風水説です。斑鳩の地は、山が北にせまり、東は富雄川、西は竜田川に限られ、南に大和川が流れています。これは、風水説に適合した地であり、「もう少し究明しないといけない」と氏は説いています。

 確かに、山あいに位置する飛鳥や、大和三山に囲まれた地を中心としているものの北に山並みが連ならない藤原京とは大きな違いですが、次の都を意識しての選択だとすると、どうして以後、平安京まで風水説に基づく地が選ばれなかったのか、という問題も出てきますね。

 推古天皇から賜った水田百町が元になっているとされる播磨国揖保郡鵤庄については、嘉暦四年(1329)・至徳三年(1368)の絵図では、361町を占めていることを示します。そして、奈良時代にはこの地は斑鳩とは呼ばれておらず、長暦三年(1039)の文書に「鵤荘」とあるのが史料上の初出であり、この鵤庄は、秀吉の播磨平定までは、法隆寺の領地・領民となっていたことに注意します。

 また、北野廃寺の9世紀の溝から「鵤室」と書かれた墨書土器が発見されていますが、広隆寺旧境内の東北に位置する北野廃寺は、聖徳太子から仏像を受けて秦河勝が造ったと伝えられる蜂岡寺にほかならず、その寺地が狭くなって移ったのが広隆寺だとするのが、岩本氏の見解です。

 このように、大和平群郡と、播磨国揖保郡と、山背国北野という三つの「いかるが」があり、いずれも「聖徳太子と縁がある」ことが重視されています。

 なお、岩本氏は、「いかるが」については、鳥の「いかる」の「か(棲みか)」とする説を提唱しつつも、「いかんが」と発音できる漢字で書かれた「評」木簡に注目し、「駿河(しゅんが)」が「するが」、「播磨(はんま)」が「はりま」となったように、「いかんが」が「いかるが」に変化した可能性をも示唆します。注では、「いかるが」は「伊干我」「伊看我」と表記される古代朝鮮系の語だと考える新川登亀男さんの説を「傾聴すべき説である」と評価しており、検討は後日に期すと述べています。

 結論としては、斑鳩については、上宮王家が地割をともなう都市計画を行って宮殿や寺院を造ったこと、播磨や山城に関連する荘園や施設があったことが確認されています。いろいろ分かってきた一方で、都を意図しての選択なのかどうか、「いかるが」の地名の由来など、かえって謎が増えている面もあるのが現状、というところでしょうか。

 関連する概説としては、清水昭博「斑鳩からみた飛鳥--飛鳥時代前半期の斑鳩--」(吉村武彦・山路直充・青木理人編『都城 古代日本のシンボリズム』、青木書店、2007年)という論文も出ており、最近の研究状況がまとめられています。
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