2025年に刊行が始まった「歩いて学ぶ日本古代史」シリーズは、古代をしのびながらる人に役立つ情報を記すとともに、当時の状況を考えるという企画になっています。玉石混交の記事が並んでいますが、その中で考えさせられる点があったのは、
古市晃「飛鳥の宮と蘇我氏」
(『歩いて学ぶ日本古代史 1:邪馬台国から大化改新まで』、吉川弘文館、2025年)
です。
氏が冒頭にかかげている飛鳥の地図を見れば、蘇我氏の勢力がいかに強力だったかが一目瞭然ですね。氏は橿原神宮駅からスタートします。最近は電動自転車もレンタルされているそうですが、普通の自転車だと土地の高低を実感できる利点があると述べます。これは大事ですね。
樫原神宮駅の横を南北に走る国道は、かつての下ツ道と重なっており、駅のすぐ東にある交差点付近は、下ツ道と東西に走る山田道の交点であって、軽街(かるのちまた)と呼ばれた交通の要所です。この近くに、「軽曲殿」と呼ばれた蘇我稻目の邸宅があり、稻目の娘であって欽明天皇妃となった堅塩媛の改葬儀礼がおこなわれたのも、この軽街でした。
軽街から東に向かう山田道はゆるやかな丘陵を登っていきますが、応神天皇の時に百済から渡来した阿直伎が良馬をもたらして飼育したことから、このあたりを厩坂と名付けた伝承があり、ここに舒明天皇の厩坂宮が置かれました。
大和と河内を結ぶ大坂を大坂戸と記した事例から見て、古市氏は、聖徳太子の実名である「聖徳太子の実名、厩戸王(うまやとみこ)」は、彼がこの地に拠点を有したことにちなむとしたかつての自らの説を述べます。
いまだに実名は「厩戸王」などと言っていることに呆れますが、前にも批判したように、大坂が大坂戸とも言われるのであれば、その地で育った皇子は大坂戸皇子と呼ばれるでしょうし、厩戸がこのあたりに拠点を持っていたという記録はありません。
氏は、この近辺の建物や遺跡について語ったのち、飛鳥宮跡に移ります。そして、近年の発掘成果から、三つの時期の宮殿遺構が重なって存在することに注意します。舒明天皇の飛鳥岡本宮と推測されているⅠ期遺構からは火災跡が発見されており、舒明9年(636)に岡本宮が焼失したとする『日本書紀』の記述の正しさを裏付けるものとなっています。
つまり、飛鳥時代の王宮は、難波と大津に遷った一時期を除き、一貫して狭い飛鳥の地域にあったのであって、天皇の代替わりごとに宮が遷るというのは、飛鳥時代には成り立たないことが分かったのです。
つまり、飛鳥は、大化改新以後も狭い地域に王宮と寺が次々に建てられた王宮の地であったのですね。その南部にあって檜隈寺跡がある檜隈は、蘇我氏が用いた渡来系氏族の東漢直氏の拠点ですし、稻目が初めて大臣に任じられた際の倭王、宣化の王宮は檜隈に置かれていたとされますので、もともと蘇我氏の拠点だったのでしょう。
そのやや東に位置する坂田寺跡は渡来した司馬達止が建立した寺です、この鞍作氏が蘇我氏の元で様々な仏教事業を担当したたことは有名ですね。
古市氏は、蘇我氏の拠点は飛鳥の中心部とその周辺の要衝を押さえる形で配置されていたことに注意します。その坂田寺近くには、稻目の墓という説もある都塚古墳があります。これらの古墳に関する最新の成果を示すと称する明日香村教育委員会の「出す出す詐欺」本が6月に出るかどうか。