「四節文」とは、『聖徳太子伝暦』に引用されている「四節意願」の文であって、病床の聖徳太子が推古天皇の詔問に答えて述べたとされる以下の四条の願いを指します。
以上です。これについて、新たな視点から検討を加えたのが、
山口哲史「『聖徳太子伝暦』所引「四節文」の成立と四天王寺」
(『日本歴史』2011年10月号)
です。山口氏は、聖徳太子信仰について独自の立場から研究を進めている若手研究者であり、関連論文が複数あります。
『聖徳太子伝暦』に引かれているこの「四節文」については、成立年代などを含め、分からないことばかりです。このブログでは、四天王寺と法隆寺の争いの中で生まれたとする榊原史子氏の論文を紹介しました。
今回の山口論文は、その榊原論文を批判し、この「四節文」は、法隆寺資料と大安寺資料を一体化したような性格を持っていると主張します。
まず氏が指摘するのが、宝亀2年(771)に、大安寺僧でもあった四天王寺三綱の敬明らによって著された『七代記』の逸文に、(1)と(4)に当たる内容が見えている点です。ただし、こちらでは(1)は、「四天王寺・法隆寺……」という順序になっています。
そして、山口氏は、(3)における禁止事項と警告が、大安寺など十二箇寺に対して、聖武天皇が経典読誦を命じて発した詔書の記述と似ていることに着目します。ここでも、大安寺が関わっています。
そこで、氏は、「四節文」の原形は『七代記』所載の形でまず作成され、第二段階として、法隆寺僧が「四天王寺・法隆寺……」の順であった太子造営七箇寺を「法隆寺・四天王寺……」に変え、法隆寺僧への三経講読を指示した部分を追加し、現在の形ができたと推測します。
四天王寺と法隆寺が聖徳太子信仰を競い合っていたことは事実であり、四天王寺の伽藍が整備されるのは、法隆寺僧行信や大安寺道慈らによって法隆寺での聖徳太子信仰が強められる時期であり、太子を祀る法隆寺東院が造営されると、その影響を受けて四天王寺でも太子を祀る聖霊院が造営されています。ここでも、大安寺が出てきます。
このように、道慈や敬明が大安寺僧であったことから見て、奈良時代における聖徳太子信仰の発展には、大安寺が重要な役割を果たしたことが考えられるというのが、氏の結論です。
こうして見ると、実際の展開はどうであったにせよ、大安寺の前身が、法隆寺の隣接地域であって道慈の出身氏族の本拠地、熊凝の道場であったと伝えられていることは、やはり無視できないですね。
(1) 天皇たちの奉為に造営した法隆寺・四天王寺など七箇寺を加護してほしい
(2) 法隆寺僧は、毎年、90日間にわたって三経の講経をおこなうべし
(3) 七箇寺の財物を犯し用い、伽藍を破損すれば悪報があり、後代の子孫にまで災難が及ぶ
(4) 熊凝村に作った道場を官の大寺にしてほしい
(2) 法隆寺僧は、毎年、90日間にわたって三経の講経をおこなうべし
(3) 七箇寺の財物を犯し用い、伽藍を破損すれば悪報があり、後代の子孫にまで災難が及ぶ
(4) 熊凝村に作った道場を官の大寺にしてほしい
以上です。これについて、新たな視点から検討を加えたのが、
山口哲史「『聖徳太子伝暦』所引「四節文」の成立と四天王寺」
(『日本歴史』2011年10月号)
です。山口氏は、聖徳太子信仰について独自の立場から研究を進めている若手研究者であり、関連論文が複数あります。
『聖徳太子伝暦』に引かれているこの「四節文」については、成立年代などを含め、分からないことばかりです。このブログでは、四天王寺と法隆寺の争いの中で生まれたとする榊原史子氏の論文を紹介しました。
今回の山口論文は、その榊原論文を批判し、この「四節文」は、法隆寺資料と大安寺資料を一体化したような性格を持っていると主張します。
まず氏が指摘するのが、宝亀2年(771)に、大安寺僧でもあった四天王寺三綱の敬明らによって著された『七代記』の逸文に、(1)と(4)に当たる内容が見えている点です。ただし、こちらでは(1)は、「四天王寺・法隆寺……」という順序になっています。
そして、山口氏は、(3)における禁止事項と警告が、大安寺など十二箇寺に対して、聖武天皇が経典読誦を命じて発した詔書の記述と似ていることに着目します。ここでも、大安寺が関わっています。
そこで、氏は、「四節文」の原形は『七代記』所載の形でまず作成され、第二段階として、法隆寺僧が「四天王寺・法隆寺……」の順であった太子造営七箇寺を「法隆寺・四天王寺……」に変え、法隆寺僧への三経講読を指示した部分を追加し、現在の形ができたと推測します。
四天王寺と法隆寺が聖徳太子信仰を競い合っていたことは事実であり、四天王寺の伽藍が整備されるのは、法隆寺僧行信や大安寺道慈らによって法隆寺での聖徳太子信仰が強められる時期であり、太子を祀る法隆寺東院が造営されると、その影響を受けて四天王寺でも太子を祀る聖霊院が造営されています。ここでも、大安寺が出てきます。
このように、道慈や敬明が大安寺僧であったことから見て、奈良時代における聖徳太子信仰の発展には、大安寺が重要な役割を果たしたことが考えられるというのが、氏の結論です。
こうして見ると、実際の展開はどうであったにせよ、大安寺の前身が、法隆寺の隣接地域であって道慈の出身氏族の本拠地、熊凝の道場であったと伝えられていることは、やはり無視できないですね。
拙稿をご高覧いただき、ご紹介いただきましてどうもありがとうございます。
また、過分の評価を賜り、恐縮いたしております。
いつも貴ブログを拝読させていただき、勉強させていただいております。
本来ならば、書状にてご挨拶させていただかなければならないのですが、略儀ながら、まずはコメント投稿という形でお礼申し上げます。
今後ともどうぞよろしくご教導賜りますよう、お願い申し上げます。
太子関連のご論文は、ほとんど拝見させていただいてます。学恩に感謝します。
分からないことばかりとはいえ、文献を地道に読んでいれば、少しづつ見えてくるものもありますよね。
私の方こそ、拙稿をお読みいただき、深謝申し上げなければなりません。
古代の四天王寺史を中心に研究させていただいておりますが、私も最近、ようやく「何か」が見えてきたような気がいたしております。
従来の研究では、『四天王寺御手印縁起』が全ての起点であるかのように述べられることが多いですが、
実は、そうではなく、『御手印縁起』は、四天王寺史の一種の「集大成」のようなものだったのではないかと、おぼろげながら愚考しております。
その辺りのことを、今後、研究していくつもりです。
また、ご教示賜れば、幸甚でございます。
正倉院の写経記録みたいな調子で、推古朝から鎌倉時代までびっしりと記録され続けていたら別ですが、そうでない以上、現存文献の背後には、消えてしまった何十倍もの文献や伝承があったと考える方が自然でしょう。
細かい話は、メールか手紙で続けましょう。