聖徳太子研究の最前線

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山背大兄一家が滅亡させられた理由(1):佐藤長門「斑鳩宮家-山背大兄王の自害で消えた聖徳太子の血筋 」

2021年10月02日 | 論文・研究書紹介
 山背大兄は不運な人、また不人気な人です。天皇になれずに殺されたうえ、法隆寺でも四天王寺でも、山背大兄を供養する盛大な法会などはおこなわれてきませんでしたし、研究もきわめて少ないのです。

 CiNiiで検索したところ、題名に「山背大兄」を含むのは以下の4点のみでした。

佐藤長門「斑鳩宮家-山背大兄王の自害で消えた聖徳太子の血筋 」
(『歴史読本』 第56巻10号、2011年10月)

遠山美都男「男女二十三王、罪なくして害せらる - 山背大兄王滅亡事件」
(『歴史読本』第57巻2号、2012年2月 )

森浩一「山背大兄王と一族の死 」
(『歴史読本』第58巻1号、2013年1月)

若井敏明「山背大兄王 : 上宮王家滅亡の黒幕はだれか」
(『歴史読本』第59巻4号、2014年4月)

以上です。一目瞭然ですが、見事に『歴史読本』だけです。編集者が山背大兄好きなんでしょうか。

 『歴史読本』は学術雑誌ではなく、歴史ファン向けの一般誌ですが、専門でないライターが書くことの多いこの手の雑誌の中では珍しく、第一線の研究者が最新の内容を紹介していることが多いです。また、気楽なせいか、厳密な論証を要求される論文では書けないような推測を述べている研究者もおり、役に立つ場合が少なくありません。そこで今回は、上記の4本について、発表順に連載しましょう。

 まず、佐藤氏は、上宮王家という言い方が一般的だが、山背大兄が上宮王と呼ばれた例はないため、用明天皇→厩戸→山背大兄と続く王統を「斑鳩宮家」と呼ぶとします。

 そして、敏達天皇が亡くなると同じ欽明天皇の子である用明天皇が即位したものの、単なる兄弟継承と見てはならず、皇子宮を経営していた大兄のみが後継資格者とされ、その範囲で同世代の候補者が順次即位してゆき、それが尽きた段階で次の世代に移行することになっていた、と述べます。

 山背は大兄になっていたため、その資格があったわけですが、山背が天皇になれなかったことについては、対抗馬である田村皇子(舒明天皇)は蘇我馬子の娘である法提郎女と結婚して古人大兄が生まれていたのに対し、山背大兄は蘇我氏との婚姻関係がなかったことが働いていたのかもしれない、とします。

 ライバルだった舒明天皇が亡くなると、同世代の山背大兄に回ってくる可能性もあったわけですが、倭国政権は舒明の妃であった宝皇女を即位させて皇極天皇としてしまいます。これは、山背大兄への継承を遅らせるためであったとしても、山背大兄が生きている限り、その次の天皇候補は山背大兄です。

 そこで、蘇我入鹿が蝦夷から大臣位の象徴である紫冠を授けられると、山背大兄排除の動きが一挙に強まり、ついに入鹿の命によって巨勢徳太と土師娑婆らに斑鳩宮を襲撃させるに至るというのが、『日本書紀』の記述です。

 ただ、『日本書紀』では入鹿が悪者で主導したという扱いですが、『上宮聖徳法王帝説』では、首謀者として蘇我蝦夷・入鹿・軽(後の孝徳天皇)・巨勢徳太・大伴馬甘(長徳)・中臣塩屋枚夫という6名があげられていると佐藤氏は注意します。

 要するに、山背大兄が王権内で孤立していたのに対し、蘇我氏の血を引く古人大兄をかかえた蘇我氏と、皇極が即位して急に天皇候補に躍り出た軽皇子(孝徳天皇)、およびその側近などの思惑が一致した結果、山背大兄とその一家を滅亡させたものの、皇極以後の後継者を誰にするかが決まっていなかったため、その点をめぐる対立が蝦夷・入鹿を倒した乙巳の変となったのだ、というのが長門氏の結論です。

 無難な見方ですが、『法王帝説』が首謀者6名の名をあげているというのは勘違いです。『法王帝説』は、入鹿が「山背大兄と其の昆弟等、合わせて十五王子を悉く滅した」と述べるのみであって、6人を首謀者とするのは『上宮聖徳太子伝補闕記』ですね。
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