聖徳太子研究の最前線

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吉田一彦編『変貌する聖徳太子--日本人は聖徳太子をどのように信仰してきたか--』

2011年12月15日 | 論文・研究書紹介
 大山誠一編『日本書紀の謎と聖徳太子』(2011年6月、平凡社)の続編が送られて来ました(吉田さん、増尾さん、有り難うございます)。

吉田一彦編『変貌する聖徳太子--日本人は聖徳太子をどのように信仰してきたか--』
(平凡社、2011年11月、2600円税別)

です。前編の『日本書紀の謎と聖徳太子』のうち、まだ取り上げていない論文もありますし、森博達さん・井上亘さん・石井公成の三者による論争も途中で止まっているうちに、聖徳太子信仰の変遷を探る続編が出てしまいました。前編の残っている論文についても、このブログで論じていくことになるでしょうが、とりあえず、今回の本の全体の構成を紹介しておきます。

 序論「聖徳太子信仰を解き明かす」  吉田一彦

 第I部 信仰の対象となった「聖徳太子」
  「聖徳太子信仰の基調--四天王寺と法隆寺」 吉田一彦
  「上宮王院と法隆寺僧行信--奈良時代前期における太子信仰の一面」 増尾伸一郎
  「聖徳太子慧思託生説と『延暦僧録』「上宮太子菩薩伝」 蔵中しのぶ
  【コラム】「「異本上宮太子伝」の写本と内容」 吉田一彦

 第II部 深化する聖徳太子信仰
  「聖徳太子霊場の形成--法隆寺・四天王寺と権門寺院」 藤井由紀子
  【コラム】「聖地としての聖徳太子<生誕地>」 小野一之
  「聖徳太子信仰と蝦夷」 永田一
  「『四天王寺縁起』と「聖徳太子未来記」」 榊原史子
 
 第III部 民衆へと広がる聖徳太子信仰の展開
  「聖徳太子の再生--律宗の太子信仰」 小野一之
  「専修念仏運動における親鸞の太子信仰
    --『皇太子聖徳奉讃』七十五首を中心の素材として」 早島有毅
  【コラム】「親鸞の聖徳太子信仰の系譜」 吉田一彦
  「聖徳太子絵伝の世界
    --聖徳太子十四歳廃仏の場面から」 脊古真哉

 あとがき
 執筆者紹介

以上です。

 このうち、「あとがき」は、編者だけでなく、各執筆者による小文が載せられています。吉田さんの「あとがき」の冒頭はこうです。

 「聖徳太子」を解明するには聖徳太子信仰の展開を明らかにしなければならない。なぜなら、聖徳太子関係史料は、そのすべてが聖徳太子信仰のなかで形成されたものだからだ。最初はそう考えた。次には、聖徳太子信仰の研究こそが聖徳太子研究の本体になる。なぜなら、尾ひれこそが聖徳太子の実体だからだ。そう考えるようになった。今では、聖徳太子信仰を解明することは、聖徳太子の解明を離れても、日本の思想や文化を明らかにする上で重要課題になると考えるようになっている。(334頁)

 これはもっともな考えですね。信仰史こそが重要だという点は賛成です。吉田さんと私の違いは、吉田さんは「理想的な聖人としての聖徳太子は『日本書紀』によって生み出された」と主張するのに対し、私は「厩戸皇子はおそらく生前から神格化されており、それがさらに何段階かの神話化・伝説化を経て『日本書紀』が描く皇太子としての上宮廐戸豊聡耳太子になった」と考えている点です。

 また、吉田さんの序論は、「日本には、聖徳太子を仏や菩薩と同じような聖人として信仰する『聖徳太子信仰』が広くみられる」という言葉で始まってます。これは正しい指摘なのですが、中国の北朝では「皇帝=如来」が主張され、南朝では梁の武帝が「菩薩天子」とされていたほか、天下を統一した隋の文帝・煬帝なども武帝以来の伝統を受けて「菩薩天子」としてふるまっていたことなどにも触れ、そうした政治がらみの生前からの神格化との比較もしてもらいたかったところです。

 私自身は、今回の吉田論文では取り上げられなかった三経義疏の研究を中心としていますし、最近は、日本では仏菩薩がいかに通俗化・人間化されたかという問題を調べており(先日、刊行された拙論「仏法僧を尊ばない「ことわざ」」[『文学』2011年11・12月号、岩波書店]でもこの問題を扱いました)、聖徳太子信仰史については、戦時中から始まった「人間聖徳太子」という考え方が成立した背景を探る、といった研究をしています(来年5月刊行予定です)。

 つまり、今回の『変貌する聖徳太子』が扱っている時代の前と後をやっていることになりますが、その「人間聖徳太子」という考えは、「悩みに満ちた一人の人間としての聖徳太子」という形で太子に共感し、太子のうちに人生の手本を見いだす点で、『歎異抄』とキリスト教の影響を受けた近代的な「聖徳太子信仰」の一形態と見ることが出来るかもしれません。

 本書に収められた諸氏の論文は冒頭の吉田論文を初めとして、後代の聖徳太子信仰のあり方を解明しようとするに当たって、どのような人物や寺がどのような状況で太子信仰を強調したかという点に力をそそいでおり、非常に有益なものです。ただ、吉田論文では、『日本書紀』における四天王寺の記事の扱いや法隆寺金堂薬師仏の制作年代など、賛成しがたい個所もあるので、以後、個別の論文ごとに紹介していくことにします。

 それにしても、今回の吉田論文では道慈の名が一度も出てこないけど、道慈はどこへ行ってしまったんだろう?