聖徳太子研究の最前線

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公伝より大寺院建立が問題: 崔鈆植「六世紀の東アジア地域における仏教伝播過程についての再検討」

2011年12月20日 | 論文・研究書紹介
 前回紹介した最新刊の吉田一彦編『変貌する聖徳太子』(平凡社)については、吉田さんの論文「聖徳太子信仰の基調--四天王寺と法隆寺--」から検討していく予定でしたが、その前に押さえておくべき成果があります。つい最近の発表、

崔鈆植「六世紀の東アジア地域における仏教伝播過程についての再検討--百済の仏教治国策の成立と周辺国家への影響を中心に--」
(「国際シンポジウム 「仏教」文明の東方移動--その受容と抵抗--:要旨集」、2011年12月9日、早稲田大学・東アジア「仏教」文明研究所)

です。

 親しい研究仲間である韓国国立木浦大学の崔鈆植(チェ・ヨンシク)さんは、韓国仏教史を中心にして幅広く研究しており、日本や中国の研究成果を踏まえたうえで新たな視点による様々見直しができる研究者です。中国三論宗の著作とされてきた慧均『大乗四論玄義記』は、実際には中国に渡って学んだ慧均が百済に帰国した後に著したものであり、現存する韓国最古の書物であることを発見した際は、新聞などでも報道されました。古代日本仏教に関しても、いくつかの発見をしています。

 先日のシンポジウムでの日本語発表は、少し前に韓国でおこなった発表に基づくもので、雑誌論文として刊行されるのはそちらの方が早いでしょう。今回の発表では、崔さんは、「仏教公伝は本当は何年か」という問題になぜこだわるのか、という疑問を提示しました。同盟を結んでいた新羅との関係が悪化した百済は、日本との関係強化を求めて様々なものをしきりに日本に提供したのであり、仏教はその一つなのだから、何度伝えられていても不思議はない、とするのです。

 それに対し、崔さんが注目するのは大伽藍の建設です。仏教国家である梁を模範とし、転輪聖王たらんとしていた百済の聖王は、梁と交流して武帝の経典注釈や寺の建築技術を初めとする様々な文物や技術を導入しました。聖王は、梁の大通元年(527)には梁の武帝のために、百済で初めての本格的な伽藍である大通寺を建立しています。

 この年に新羅で仏教受容をめぐって騒動が起きていますが、史料をよく読めば、これは仏教受容をめぐる論争というよりは、大寺院創建をめぐる争いなのであって、新羅との軍事協力を深めるために、百済が大通寺を建立した技術者たちを新羅に派遣し、大寺院建立を支援しようとした点が重要、と崔さんは論じます。つまり、膨大な費用がかかる大寺院建立は、宗教問題であるだけでなく、外交問題でも財政問題でもあるのです。

 新羅の初期の寺院跡からは、百済寺院の形式の瓦などの遺物が発見されていることが示すように、新羅はこの時期、百済の仏教を受け入れ、百済の媒介で梁への朝貢を始めるなど、百済との関係を深めます。ただ、新羅は次第に自立の姿勢を強めていき、受容した百済仏教の上に、中国と高句麗の仏教を重ねて受け入れながら独自の仏教文化を形成し、強力になっていきます。

 日本への仏教伝来はどうかと言えば、民間での流布は早かったものの、王室への伝来という点では、古記録による538年は百済が高句麗の圧力を受けて泗沘に遷都した年、また『日本書紀』が重視する552年は、百済と新羅の国交断絶の年であることに、崔さんは注目します。

 つまり、新羅に仏教を伝え、新羅と梁の外交の仲立ちもした百済は、近隣国との関係が悪化するにつれて日本との関係強化に力を入れるようになり、仏教外交を展開するようになったのだ、そのため日本に何度も仏教を送ったのであって、伝来の年代が複数あっても差し支えない、というのが崔さんの主張です。

 日本では仏教の公的受容は遅れていましたが、受容しようとする勢力、百済との関係を重視する勢力が強くなった結果、587年には本格伽藍である法興寺の造営開始に至ります。ここで百済の最新技術が一気に活用され、「仏教の理想的な君主像」も採用されるようになった結果、百済と対立していた高句麗や新羅も、百済に続いて日本に仏像や僧侶その他を送り、仏教外交を展開した、という流れだと見るのです。

 崔さんは、従来は、新羅の仏教受容を論ずるに当たっては、中国の影響や国内の在来信仰との軋轢などが重視されてきたが、百済の積極的な働きかけにも注目すべきだと主張します。そして、それと同じことが日本への仏教伝来にも見られるとし、当時の東アジア外交における百済の能動的な役割に注意します。

 百済の外交的働きかけという点は、先にこのブログでとりあげた徐甫京「百済を媒介とする高句麗と倭との交渉」論文も、着目していたことですね。いずれにしても、日本の仏教受容というのは、中国大陸での動向を大きな背景としつつも、直接には朝鮮半島諸国の複雑な関係と結びついてなされた出来事であった、ということを改めて念頭に置くべきなのでしょう。

 以前、私は、仏教公伝というのは、近隣国との激しい対立が続く中で、自国に味方してくれそうな国に対して技術と資金の援助を行って原子力発電所の建設を支援し、その国から留学して来る技術者の養成も引き受けるなど、長く続く親しい関係になっていることを他の諸国にアピールするようなものだと書いたことがあります(石井「仏教受容期の国家と仏教--朝鮮・日本の場合--」、高崎直道・木村清孝編『東アジア社会と仏教文化』、春秋社、1996年)。崔さんの発表を聞き、また現在の国際情勢を見ると、昔も今も状況はあまり変わっていないことを痛感します。