夢の時間展開は奇怪だが、普通には異時間感覚は抱かない

2020年08月13日 | 昔話の異時間・異世界-浦島太郎と山幸彦-
【4-2.夢の時間展開は奇怪だが、普通には異時間感覚は抱かない】
 誰でもが思い当たる異常な時間展開というと、おそらく夢がその筆頭にあがる。自身が子供になる夢もあれば、突然、自分の葬式になったり、途中から友人の送別会になったりする。奇怪きわまりない。だが、これは、時間自体が奇怪な展開をするのではなく、夢が(実在世界の)時間を顧慮せず、夢見る当人のその夜の関心や連想のおもむくままに映像を並べて、時間の継起的な形式を無視した支離滅裂な状態にあるだけであろう。天国のようにゆっくりと時間の過ぎるのでも、カゲロウのように過激な速さの時間でもなく、時間という過去・現在・未来へと流れる継起的秩序自体を無視しているにすぎない。夢では世界の根本形式としての継起の秩序、時間自体が存在していないのである。 
 夢は、一晩の眠りのほんの一時の出来事である。その夢の中では、あたかも長期の時間展開であるかのような夢を見ることもある。自分の一生の夢をみることも可能である。それは、時間の異常さを感じさせるものではないが、現実世界とは異なる継起の様相として、夢での時間の在り方といえなくもなく、これも異時間体験の末端に置くことはできよう。浦島太郎の説話のなかには、これを夢のなかでの話にとアレンジしたものがある。川へ釣りにでかけて、乙姫に誘われて竜宮に行き、結婚し、そこで生活して、やがて帰郷するが、帰ってみたら、まだ川には釣り竿があり、その間の何年もの経過は、釣りのわずかの時間のことだったという話である(関敬吾『日本昔話大成』 角川書店 昭和53年 第6巻 28頁 参照)。夢では、主観の想像・妄想と同様、時間は支離滅裂であったり、長年月のこともあったりして、現実の実在世界からいうと奇怪だらけで、ことさらに時間自体についての奇怪な感覚になることは、あまりないし、あっても、夢のこと、妄想・妄念の観念世界のこととして実在世界の時間秩序とは無関係に、別扱いにするのが普通となる。 
 どんなに長くてもわずか一晩の夢なのだが、その一晩の夢のなかでは、何十年もの生活を展開することがある。一晩の夢において、自分が青年のときから、結婚し事業に成功し、老化して死ぬまでのことを展開することがある。「邯鄲の夢」など、粟粥を作ってもらう食事準備の間に居眠りして、その間に自分の一生の栄枯を体験する夢を見た。醒めてみたら、粟粥はまだ出来上がっていなかったと。「一炊の夢」である。ここでは、夢見る時間は、一晩とか、わずかの微睡の間とちゃんと自覚している。夢の内容が一生に渡っていることが同時に現実だと錯覚などしない。その夢のなかでは、現実の日課、毎朝顔を洗って食事してと詳細に反復するといった手間暇は一切とることがない。夢の内容自体を少し反省すれば、大事件のみを、それも勘所をつまみ食いして追っていった長期間にわたる夢だったと、自覚できる。白昼夢で壮大な自分の一生を見るのと同じで、(ただし白昼夢と違い、夢は随意にはならない)妄想・妄念であることの自覚がもてる。ただ、感情的には、夢で自分が殺されるのを見たあとは、起きて想起するとき、その内容には、自身の感情反応をもって、恐怖心をいだくことにはなる。その恐怖心から、現実を見れば、実際に今日は自分にそういうことが生じるかも知れないと、現実への影響をもつこともある。だが、それを反省してみれば、「夢で良かった」と分別でき、現実とは混同しない。夢の中での時間経過も、現実とはちがい、根本的に無秩序でしかないと自覚できる。  
 逆さ浦島とか「一炊の夢」の場合、時間経過は長大で一生に渡るようなものでも、それは、目覚めてから思うときには、夢の中、体験する当人の頭のなかだけでの夢想・幻想との自覚がある。夢の中では、肝要な出来事のその核となる断片のみを抜粋して飛び飛びに見ていく。関心事をそのエキスのみを順序不同に急いで見ていくだけであって(おそらく、継起的な時間展開の夢になるよりは、自分の葬式を見て続いて自分の結婚式の場面となり、いつのまにか子供や親せきの結婚式や葬儀に変わる等と時間的には支離滅裂な夢になるのが普通であろう)、その夢の中での時間展開が植物の生長の動画の早送りのように急速になっているわけではない。もちろん、夢から覚めた世界には何の時間的影響もない。その夢の時間が同時に、夢から覚めたときの現実の時間と一つになるのなら、二重の時間ということで奇怪であるが、そういうことになるのではない。夢でなくても、想像において、あるいは、白昼夢で、自分や子供の一生を見るとしたら、ほんの5分か10分のうちに、詳細なその生の展開を見ることができる。実在的世界でなら、日々、食事をし大小の用を済ませ歯磨きをし等々ということが延々とつづくのだが、それらは、一切省略しての、現実の要点のみの断片的な想起であり、現実と混同することはない。太陽系の一生を想像する場合は、何億年もの詳しい展開を、ものの5分で描きうるだろうが、それ自体は、時間そのものを超高速で何億年と展開するものではない。その何億年いう太陽自体の展開する時間と、その長大な時間展開を想像する時間は、無関係にとどまる。逆さ浦島で、釣りをしている間の夢に竜宮城で楽しい日々を過ごしたからといっても、その居眠りの30分と竜宮での3年は、別々の経験と自覚する。居眠り状態の心身の体験があり、その間に、心中で異世界にと遊ぶ夢の体験をもったということである。その実在世界の30分が即同時に異世界の継起の秩序としての時間の3年であった(その間、毎日、日に一回、つまり、千回以上も洗顔したり大便を繰り返したというようなうんざりする夢を見続けた)というのなら、浦島的な異時間体験になるが、そういうことではない。夢と現実は区別される。電車のつり革を握って通勤の30分の間に、サラリーマンが白昼夢に遊び、自分が社長になって世界中を駆け回り高野山に墓をつくってもらって信長たちと並んで空海のそばで安眠したというような50、60年にわたる人生を描くのと同じである。うたたねの間の夢は、自身の一生の夢であったとしても、それを現実と錯覚することはない。