苦痛の感情は、損傷との解釈と、生防護の反応からなる

2020年08月08日 | 苦痛の価値論
1-1-2. 苦痛の感情は、損傷との解釈と、生防護の反応からなる
 感情は、感覚等の情報をふまえその事態の自分への価値・反価値を解釈・判定して、その価値判定に見合う個我主体の心身反応をもつ。怒りの感情なら、相手のことを気障りと解し判定して、これに懲罰・攻撃を加えようといきり立って身体的に反応する。悲しみなら、自分への価値喪失が生起したと判定して、これに自己防衛的に対応し、身体的に萎縮し血流を滞らせ自己閉鎖的にと反応をする。
 身体をめぐっての苦痛の感情は、苦痛の感覚をもって、個我主体が損傷との解釈をして、これに緊張・嫌悪や抑鬱の反応をし、不安や焦燥、ひどくなると虚脱の反応までする。その反応は、生の防衛反応であろう。そう反応するのは、生が損傷を受けたと判定しているからである。生理的な場合、苦痛刺激が生じてそこが損傷を受けているという情報をその部位が発する。「手が痛い」という苦痛の感覚である。そのことで、「手」ではなく、(心身全体をもって緊張等の反応をして)「私は、苦痛だ」「私は、苦しい」というのが苦痛の感情になる。苦痛の感覚と感情は、ずれることもある。放尿では、これを我慢しているときは、尿意は、緊張・焦燥等の苦痛の感情となる。放尿しはじめると、そこにしばらくは苦痛(感覚)が残っているが、これは、苦痛の感情反応にはなっていかない。逆に、その放尿中の残存する苦痛は、ほっと安堵しての快感のなかで、解放感を確かなものにする、心地よい苦痛(感覚)になる。
 精神的な苦痛・苦悩は、その主体が価値あるものを奪われたり損傷を被ったところに抱く。個我にとっての損傷(肉親の死、財貨の損失等)との判定をまず知性が行う。そのうえでこれに個我主体として対応、感情的反応をする。苦痛(感情)は、損傷を前に防衛的な、あるいは、排撃的な反応をし、萎縮したり緊張の反応を見せる。あるいは、その損傷から遠ざかりたいと、これに嫌悪感を生じ回避の反応をもったりする。苦痛の感情は、単に損傷との判定・解釈をするだけでは成立しない。これへの生主体からの萎縮や拒否・排撃等の反応・対応をもっているのでなくてはならない。
 怒りでは単に気障りと判定しているだけでは怒り(の感情)にならない。困ったことだと見つめるだけで心静かである。身体がむらむらとし熱気をおびて攻撃的に反応してはじめて怒りとなる。肉親の死を前にしたとき悲しむのが一般だが、死を冷静に受け止めるだけでは、悲しみにならない。それを喪失と価値判断するのでなくてはならない。かつ、身体がその喪失に見合うように反応して、萎縮し虚脱の様相をもち、目頭を熱くするようなことがあって、つまり、身体が泣くことをもって悲しみの感情は成立する。身体の反応が感情には必須であり、ときには、悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しくなるのだということがあるぐらいである。
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