苦痛を生じる損傷には、広くは欲求不充足も含む

2020年08月18日 | 苦痛の価値論
1-1-3. 苦痛を生じる損傷には、広くは欲求不充足も含む  
 忍耐は、外的な損傷による苦痛を対象にするが、それがすべてではない。もう一つの大きな対象領域として、内から生じる欲求・衝動に対する忍耐がある。欲求を抑圧するとき、そのことが辛くなると、忍耐ということになる。外的な傷害は、ほぼ苦痛となるから、これを受け止めるには、忍耐がいる。内的欲求の不充足の場合は、充足を思って楽しみなのであれば苦痛ではなく、その限りでは忍耐はいらない。だが、その欲求(の不充足)が大きくなると不快・苦痛になり、そうなると、欲求不充足を続けるには、苦痛甘受が、忍耐が必要となる。
 欲求不充足は、欠損の自覚をもつことで、広くは損傷と見なせるであろう。また、外的損傷も、その個体が求め欲するものについての損傷であることが多く、その欲求が侵されているともみなされ得る。その生にとって価値があって欲求対象であるものについて、それが破壊されたり奪われて損傷になるのであれば、この損傷の苦痛は、欲求についての不充足の苦痛ともみなせるであろう。その個体のもとにあるものが破壊されたり剥奪されたとしても、もし、そのものを欲していなかったのなら、あるいは、むしろ、余計なもの・お荷物と解していたのなら、その剥奪は、ごみ処理をしてもらったということになり、快であっても、不快や苦痛をもたらすものではない。それは、かりに物理的には破壊や消失であったとしても、精神的社会的生にとっては損傷とはならない。当然、そういう事態には、忍耐は無用である。苦痛・不快になるのは、価値あるもの、欲求の対象であるものが破壊されるなどして損傷をうけてである。欲求しているものが不充足になって、そのことで欠損、喪失を意識するなら、これを損・損傷と感じる。反欲求の対象の破壊・剥奪は、損傷ではなく、利得・取得であり、求め欲求することである。欲求するものの破壊とか不充足が損傷となる。
 忍耐は、苦痛にするが、その苦痛は、損傷によって生じる。この損傷は、まずは、外的な損傷であろうが、欲求の不充足も広くは損傷のうちに含めて良いのではないか。求め欲するものが不充足になるのは、価値あるものの欠損を感じてであり、価値あるものについてマイナス状態になり傷つけられることをもってである。つまり、欲求の不充足状態は、欠損、あるいは価値物を壊され傷つけられるものとして、損傷ということになる。忍耐は、欲求不充足に生じる苦痛・不快に耐える。欲求不充足が損傷となって苦痛をもたらし、この苦痛に忍耐するのである。忍耐の対象は、苦痛である。その苦痛の生じるもととしては、外的損傷があり、しばしば欲求の不充足があがるが、後者も、広くは、損傷のうちで捉えて、忍耐は、(両)損傷で生じる苦痛にすると言っておいて良いのではないか。

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