長旅での異時間体験とあの世の永遠との比較

2020年08月03日 | 昔話の異時間・異世界-浦島太郎と山幸彦-
4.長旅での異時間体験とあの世の永遠との比較 
【4-1.二つの異時間体験とも、記憶更新ゼロに基づく】昔話(メルヘン)において異世界を語る時、その世界では時間までが異なると言うことがある。その異時間の在り方について、ここでは、ふたつをあげてきた。ひとつは、浦島のそれで、異世界にいって故郷を長く離れその帰郷時に感じるもので、もうひとつは、夢に出てくる死者の歳とらないことからするあの世の永遠という時間である。時間の異常さということでは、成長速度が急速な竹取物語の「かぐや姫」とか、逆に遅々として成長しない「一寸法師」などもあがるが、これらは、時間自体は世俗と同じである。同じだから、普通の成長に比して遅速が言われるのである。さらに別種の時間異常に、「眠り姫」のような、長期に渡って眠ったり、世俗から隔離され閉じ込められての時間の停滞とか停止を語るものもある。この場合は、世俗の時間と、主人公の生きる世界の時間とのあり方が異なる話になり、異時間体験をする。これは、浦島体験とあの世の永遠の夢体験のうちでいうと、前者の方に似たものになる。この世俗から隔離された状態(長い眠りとか閉じ込め)にとどまった後に世俗に帰り両世界の間の異時間体験をする話である。
 浦島(したがって、また、眠り姫とか長く隔離される話など)にしても、あの世の死者の異時間にしても、いずれも二つの時間からなる。そのひとつの時間は、記憶更新がなく時間経過がゼロにとどまり続けるものであり、もう一つは時間展開のあるもので、記憶の更新があり変化・変動のある時間である。その記憶更新の有無をもっての時間展開のギャップにいずれの異時間体験もなりたつ。浦島の場合は、変わってないと思うこと(記憶更新ゼロ)をもとにして、意想外に変わっているという奇怪さへの驚きの体験で、あの世の話は、この世の者は皆変わっているのに、あの世に行った死者のみは変わってないこと(記憶更新ゼロ)に驚く体験談である。眠り姫など長期に渡って世間から隔絶状態にある話の場合は、その眠りや隔絶の間、記憶更新がないままに、目覚めてのち、周囲の激変に驚くものになるから、一種の浦島体験ということになろう。
 浦島の異時間体験は、それが生じつつある異世界にいるときに感じるのではなく、ことが終わってから感じる。振り返って奇怪な体験だったと分かる。ふたつの異なった時間展開が生じていたことを発見して驚く異時間体験になる。その核となる事態は、一方の時間について、それの展開が自身のもとでは、無に留まり、したがって、昨日の今日という感覚になることである。時間は、記憶をもって過去を捉える。記憶が過去の時間を体感させてくれる。もし、記憶がなければ、昨日とか昨年ということはなりたたない。10年前のことだったとしても、その後の10年の記憶が無ならば、それにつづく今日は昨日の今日ということになる。途中の10年の記憶更新がなければ、それがゼロであれば、昨夜眠って今朝起きたのと同じである。この記憶更新ゼロの事態が一方にあって、他方でそれに10年の経過があれば、両方を合わせたとき、記憶がなくても実際には10年展開しているから、突然、昨日から今日にかけて10年分の変貌を見せることになる。目の前のものがまばたきした間に突如、10年分の変貌を見せるのである。
 この浦島異時間体験は、浦島のように、別の場所にいって、その間、元のところの記憶を更新することがないといった隔離した状態で生じるだけではなく、記憶更新がなければそうなるのだから、眠りでも生じる。通常の眠りでも、寝て起きたときは、その間の時間経過はゼロとなり極小の浦島体験をしているのである。子供だとその体験を素直に感じとるから、「さっき寝たばかりなのに、もう朝?!」と睡眠中の記憶更新ゼロにともなう時間感覚の奇怪さに驚く。年とともに、それに慣れてくるから、大きくなると、この記憶更新ゼロの無時間を錯覚とみなし就寝の時間経過という知的理解の方を優先することに慣れて(感覚的には太陽が動いているのに、知性を優先して太陽は不動とするように)、奇怪さは感じなくなる。この眠りが長ければ、眠り姫のように、一時代前の状態の記憶のままで停止することになり、目覚めたとき、突然、周囲の長い時間経過後の世界を見るという体験になる。浦島異時間体験は、一方の時間が眠りとか隔離によって生じた記憶更新ゼロの続いたもので、他方で実際には長時間が経過していて、ゼロ時間が即長時間となっていることに仰天する。だが、目の前の現実が、異時間体験を主観的な妄念だと日々否定することになるから、眠り・隔離のもと記憶更新のないために生じた錯覚だと分かり、簡単にその異常時間の体験は、消滅していく。
 天国や地獄のあの世の時間の異常さの感覚は、少し浦島体験とは異なるが、これも、記憶更新がないこと、時間経過をゼロにしていることが異時間を生じる原因となっている。この体験は、浦島のように事が終わってから感じるのではなく、異時間を担う者の現れるその現場で異常を感じて驚愕する。これは、夢のなかで生じることが多い。自身の知るあの世にいった死者が夢に帰ってくるとき、何年たっても年取らないで現れることをもって、あの世の時間を永遠とか、この世に比して言うと相当にゆっくりしか流れないと感じるのである。死者についての記憶は、死んで以後の更新はない。死ぬ前、最後に見た記憶でストップする。その後の夢では、身近な生きた者は、だいたいが年々年取って夢にも出て来るのに、死者は、あの世にいったとき以後の歳をとらない。あの世は不老不死で時間がゆっくりとしか展開していないように思えてくる。これも記憶更新がないところで生じる錯覚であるが、あの世を信じる者は、浦島体験を錯覚とみるひとであっても、これを錯覚とはしない。その死者のあの世での不老不死をふまえて天国・地獄の永遠を想像しても、これを否定する体験はしないから、反省を迫られることなくあの世の(妄想の)永遠の世界を描きあげていく。
 これは、死者のみに限定されることでもない。記憶更新がないひとについては、生きている人でも、死者に準じた体験となる。その昔会って以後音信不通にとどまって、以後の記憶の更新がなければ、古い記憶のままで夢や想像のうちに現れる。そのひとを想起するときは、その何年か前の姿のままとなる。年取らないままであろう(異境にいったままの浦島と、故郷の人も、相互にそういう存在になる)。中学校のときの片思いのひとと老人になるまで会うことがなかったとして、その愛しかったひとは、想起する場合、自分は老人になっているにもかかわらず、その中学生のままである。この体験は、浦島体験にもできる。その老人が同窓会にでて、何十年ぶりかにそのひとを見たとすれば、突然、初々しい中学生が老人になって現れて、浦島太郎の絶望感をささやかに味わうことになる。