苦痛とその原因が一体的なものなら、原因無視とはいかない

2020年03月08日 | 忍耐論2(苦痛甘受の忍耐)
2-5-1-2. 苦痛とその原因が一体的なものなら、原因無視とはいかない
 痛みは、それをもたらす痛い物に密着して現れていることが多い。痛みの原因の物があって、痛い物となっている場合、痛みに耐えるのは、痛い物に耐えることになる。自然的にはそれが普通だろう。痛い物が痛みを与えるので、この痛い物から逃げるのである。痛いからといって痛みのみから逃げて痛い物は放置するわけには行かないのが普通だろう。麻酔をして痛みだけをなくすることができる時もあるが、一般的には痛みをなくするには、麻酔するのではなく、痛む物から逃げる、これを遠ざけるのである。痛みに耐えるとは、その原因に耐えるというのが普通であろう。
 忍耐は、痛みをあたえる傷む物をそのままに受け入れる、甘受し続けることである。傷みがあるから、痛むのであり、痛みを受け入れる忍耐は、傷み(原因)を受け入れるのであり、傷みをそのままにして、これに触れないでおこうというのである。熱い風呂では、その熱湯による皮膚の傷み=痛みに我慢するのだが、熱湯に我慢するとか、熱い風呂に我慢するという。それは、熱湯をそのまま維持しておこうと意志をもってすることである。忍耐しないのなら、冷水をもってうめる。それをしないという意志を維持して、熱湯(原因)の苦痛に忍耐する、「熱湯を我慢する」のである。
 歯痛に我慢するとき、虫歯の炎症が苦痛の原因であると分かっている場合、「虫歯の炎症の痛みに我慢する」のだが、くどくなるから、「虫歯を我慢する」という。苦痛の原因が明確で、似通った歯槽膿漏などと区別する必要もあって、「虫歯」をもって表現する。意識としても、歯医者に行かずに、しばらく炎症の起こるままを、原因を放置しておこうという意志をもって受け入れ、これを維持するのである。原因について、無視・無関与にとどまっているわけではなく、原因の作用を自身が受け入れる決断をしている。つまり、こういう場合は、苦痛とともに、それの実在的な原因も忍耐の対象としているのが普通で、苦痛への忍耐(苦痛の甘受)は、苦痛の原因についての忍耐(原因の甘受)と意識されるであろう。