あの世とこの世の時間の違いを浦島にいう場合もある

2020年03月13日 | 昔話の異時間・異世界-浦島太郎と山幸彦-
【1-2.あの世とこの世の時間の違いを浦島にいう場合もある】浦島太郎の異時間の話の背景には、いわゆる「今浦島」の異時間体験があるように思われるが、それとは別の考え方をする浦島の昔話の語り手もいる。それは、竜宮にいた期間は1年ぐらいの短期間だったが、故郷に帰ってみたら300年も経っていたと語る。つまり、「今浦島」の方は、身近に多くの者が経験している事実を踏まえており、旅の期間は現にそうである通りに長大だったというのに対して、こちらの見方では、竜宮の異世界での時間の速度自体が、ごくゆっくりと進んでいたと語る。これは、宗教でのあの世の時間の速度とこの世のそれの違いをもとにしたものになる。天国も地獄も、永遠をもって語られる世界であり、時間は動くとすると、きわめてゆっくりとしか動かないと想定されている。コーヒーに誘われて30分ほど天国にいっていただけなのに、この世に帰ってみたら、1月も経っていたというようなことになる。この宗教的な世界観を踏まえての浦島では、竜宮にはほんのわずかの間、1年ほど過ごしただけなのに、この世に帰ってみたら300年も経っていたというような時間の速度の違いを語る。 
 竜宮は、異世界・異境であるが、これをあの世、神々の常世の国とみなすことがある。盆や正月には、あの世にいった祖先たちが帰ってくるという考え方は、この国の一般的な民間信仰として受け入れられてきた。あの世とこの世は、(死んだ者に限定してだが)行き来できるものとの発想であり、そういう中に浦島を組み込んだ場合は、両方の世界での時間の速度の違うことをもっての話となるのは自然ではある。ただし、この世とあの世の行き来にもとづいているものは、(今)浦島体験とは言わない。今浦島体験は、この世の多くが実際に体験していることである。長旅などで、長く見ることのなかったもの(故郷とか旧友とか)を見たとき、途中の記憶更新なく昨日の今日と感じる(錯覚する)中で、そのものに、唐突に、長大な時間経過を思わせる変貌を見いだす奇怪な体験である。この今浦島の異時間体験をふまえて示そうとする異世界も、もちろん、この世を超えたあの世、不死の常世の国となってもよい。しかし、あの世を信じない者は、この世のうちにある遥かな異境ぐらいを浦島の行ったところと想定することである。その異時間体験自体は、あの世を必要としないというのが、今浦島体験をもってする語りということになる。 
 ただ、今浦島体験をふまえる場合、長旅を誇張して捉えるだけだから、浦島の300年は、相当過激な誇張を前提にしないと成り立たない。その点、この世とあの世の時間の違いをいう方は、説明が楽である。天国は永遠で時間はごくゆっくり過ぎるといわれ、あの世での1日はこの世に換算した場合1年(365日、365倍)になると仮定すると、浦島でいう故郷の300年は、あの世でいうと1年弱なので、計算としては、分かりやすくなる。300年という数は、あの世の永遠のおこぼれをもらった年数ということで、妥当なものともなる。ただし、今浦島体験とちがい、この世とあの世の行き来とか、あの世の存在自体は、そういう宗教的世界観を受け入れてのみ納得できることで、信じないものにとっては妄想でしかなく、説得力ゼロで、受け入れ難い話となろう。あるいは、天国とこの世界の時間の速度のちがいも、実在的には、なんの根拠もないことではある。
 かりに、あの世、不老不死の常世の国があるのだとすると、それを踏まえた浦島の異時間は、錯覚をもって成り立つ「今浦島」よりは、しっかりとこれを論じるものにはなる。今浦島は、だれでもが、長く生きておれば、どこかで出くわす異時間体験で、記憶の中断、ブランクをもっての錯覚であるから、異世界を示すには、物足りないところがなくもない。その点では、あの世とか常世はまるでこの世とは違う世界で、その違いは世界の根本形式をなす時間の違いにまで及んでいるということで、その発想は、大がかりでありつつ単純で分かりやすい。神々の不老不死の常世の国では、時間が極々ゆっくりと進み、そこに1年いて、有為転変の激しい無常のこの世にと帰ってきたら300年が経過していたといった形で異質の世界の異質の時間を明快に語る。が、それは、この世にのみ生きる者には、しらふでは到底受け入れがたい妄念であり、「今浦島」の異時間体験と違って、誰もあの世に行ってきて実際に経験したわけではなく、極論すれば、虚言・作り事にすぎない。
 今浦島は、錯覚とはいえ感覚的事実である。が、それに基づく浦島の話は誇張が過ぎる、ほらふきの話になる。他方、あの世とこの世の異時間をいう方は、虚妄の作りごと、捏造になる。どちらにも問題があるが、昔話として聞く者を引き付ける点では、今浦島の方に軍配があがるのではないか。常世のあの世と、無常のこの世が各々に固有の時間をもっているという方は、それはそれとして、あの世があろうとなかろうと、両方は、別々ということでその間に矛盾を感じることもなく、平凡な作り話として見過ごして終われる。だが、今浦島は、昨日の今日という1日が同時に奇怪にも10年間でもあったという非両立、矛盾を提示するのであり、合理性に挑戦するかのようで知性は興味津々となる。しかも、錯覚ではあるが、多くの者が奇怪な感覚的な事実として体験していることでもある。知性にも感性にも刺激的な話ということになる。 
 浦島の話は、あの世との交流がテーマではない。あの世との交わりということなら、一般的には、死を媒介にすることが必要だろうが、浦島は死をもってあの世と関わる話ではない。彼の死をもって話は終わる。後日譚でも作れば、あの世にも居づらくなって、また帰ってきた浦島ということで、この世とあの世の異時間が言われるかもしれないが、そういう話ではない。この世において、魚女房などとはちがうが、羽衣伝説の天女やかぐや姫ほどでもない、亀姫(乙姫)という、この世を少々超えた世界の女性に出会ったので、常世とかあの世的なものに若干関わることになるだけである。浦島の話は、この世において、一応冒険の旅に出かけ帰還するまでの話(失敗談)であり、山幸彦とか桃太郎の話(成功談)と同類のものとみてもさしつかえなかろう。長旅の冒険談の最後を悲劇として盛り立てるために、現実の長旅からの帰郷でもしばしば体験する奇怪な「今浦島」異時間体験を針小棒大にして語っているのである。好みの問題ではあるけれども、この世のうちでの「今浦島」の異時間体験を踏まえたものの方が、浦島説話には、よりふさわしい解釈になるのではないか。ここでは、今浦島体験をもとにするものの方を採っておきたいと思う。
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