身近な忍耐とちがい、勇気は、非常時の大業になる

2016年12月16日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-3-3-1. 身近な忍耐とちがい、勇気は、非常時の大業になる

 勇気は、悪人もしばしばもつ。海賊・山賊の首領は、類い希な勇気なくしてはつとまらない。善行とちがい悪行は、しばしば排撃され攻撃されるから危険に遭遇することが多く、危険に平然と対処できる勇気が必須である。忍耐も善のみでなく悪の営みにも見られる。同じように悪行にも発揮される勇気と忍耐であるが、勇気は、徳目にあがるけれども、忍耐は、挙げられないのが一般である。

 勇気は、まれなもので卓越していることがはっきりしている。みんなが恐怖し逃げるところを、逃げず恐怖を耐え忍んだ、群を抜いたものである。山賊・海賊の勇気も、直接に目的にし意志することは、危険とその恐怖に対してひるまず平然と忍耐しつづけることである。それがもたらす悪行自体とは一応、切り離して捉えることができる。その勇気が、類い希で卓越したものとしては、悪行とは区別されつつ高く評価されるのであろう。極悪の盗賊であっても勇気ある振る舞いに出れば「極悪人ながら、天晴れなやつ!」といいたくなろう。悪人の勇気は悪をもたらすものとしては唾棄されるが、その勇気自体は、凡人にはまねのできないことで、卓越した英雄的な振る舞いとみなされて徳目となるのであろう。

 だが、忍耐は、恐怖への忍耐のように大きな類い希なものも含むが、多くがだれにでもできる凡庸なものである。悪人の一般的な忍耐でも、忍耐自体は、辛苦を甘受することとして、悪行とは区別され得る。が、その忍耐は、誰にでもできることで、そのことはかならずしも高く評価されるものにはならず、悪行の一環として悪に染めて見られるのであろう。泥棒するために高い塀を辛抱してのぼるとしても、アイガー北壁を登るのとちがって、それぐらいのことは、その気になれば誰にでもできることなのである。

 勇気は、命を賭ける等の危険・恐怖に立ち向かわねばならず、勇気をもてなくても非難されることは少ない。だが、忍耐の場合は、通常のそれは、じっとして苦痛を甘受するだけであれば、大なり小なりできるのが当たり前で、忍耐できないものは、軽蔑される。忍耐は、出来て当たり前(ゼロ)で、出来ないと軽蔑される(マイナス)。勇気は、出せなくて普通で(ゼロ)、出せたら尊敬される(プラス)。