勇気も忍耐も悪事に加担するが、勇気は徳目に挙がる

2016年12月09日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-3-3. 勇気も忍耐も悪事に加担するが、勇気は徳目に挙がる
 徳目となる節制や正義は、善目的をもってするものとして善的手段となり、悪も目的としうる忍耐とは区別される。だが、勇気は、徳目にあがるが、忍耐と同じく、悪を目的とすることが結構ある。では、なぜ、勇気は徳目にあがり、忍耐はそうではないのであろうか。
 忍耐は、苦痛・不快を対象にして、毎日いたるところに出くわすもので、できて普通のものが多い。凡人にもできねばならないことである。だが、勇気は、凡人がしり込みするところで発揮されるのである。危険への恐怖を耐えてするもので、忍耐をうちに含むが、それは大きな忍耐であり、凡人には、死の恐怖に対する忍耐など、至難のこととなる。その大きな忍耐を含む勇気は、たとえ悪の行為であっても、類い希な卓越した振る舞いとして、畏敬の念をもって見られ徳目にあがるのではないか。
 勇気は、凡人がしり込みし恐怖に負けて逃走するところで、これを抑制して耐え、おのれを危険にさらして、怯むことなく大胆に果敢に危険なものの排撃に挑戦する。いのちを賭けて英雄的振る舞いをする。その英雄的で類をぬきんでていることにおいて、畏怖され特筆に価する当為となり、徳目となるのであろう。だが、ふつうの忍耐は、多くの場合、凡人・万人にできることで、悪事においては、その忍耐も悪として醜い下衆のものと唾棄されるのである。