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「老いて死なぬは、悪なり」といいますから、そろそろ逝かねばならないのですが・・・

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覚醒が常に苦痛によるというわけではなかろう

2023年10月10日 | 苦痛の価値論
3-6-3. 覚醒が常に苦痛によるというわけではなかろう  
 覚醒をもたらす手段として、苦痛の用いられることが多いとしても、常に苦痛が手段となるわけではない。よく寝た後など、外的刺激なく、おのずからに覚醒する。あるいは、さわやかな音楽に気づいて目覚めることもある。明日は、4時に起床しなくてはならないと意識して寝ると、結構、その時間に目覚まし時計なしでも目覚める。意識自体も、睡眠中、何らかの形で目覚めへの用意・準備をしうるものと思われる。脳は睡眠中も働き続けており、無意識の展開においてのことであるが、(無)意識自身をもっての覚醒もありそうである。
 意識は、そとの世界に向けて活動するもので、常に外的刺激に注意・関心を向けており、その中で危機的信号を発するのが苦痛刺激であるから、無意識状態からの回復としての覚醒には、苦痛が効果的となる。目覚まし時計は、決して心地よい音ではなく、苦痛を与えるような音を出す。眠りは自己の世界に閉じこもる。その際、目は、瞼を閉じて外界をシャットアウトしているが、耳は、閉じる蓋をもたず常時外界の刺激を受け入れる用意ができている。したがって、意識を再開して外界を受け止めることを始めさせるには、だいたいが音をもってする。目覚まし時計は、不快で苦痛を与え無視しがたく気を引き付けるような音をだす(昔の目覚ましのベルはけたたましいものだったが、最近のは、わりと穏やかである。かつ、穏やかな音で起きない場合は、だんだんとけたたましく鳴るようにできていたりもする。しかも、周囲を起こしてはまずい場合も多い昨今のこと、腕時計式のものでは、音でなく、振動をもって刺激して覚醒させようというものもある)。
 軽くまどろんでいるぐらいなら、半分意識は残っているから、苦痛刺激になる手前の刺激でも、目覚めることができよう。「起きなさい」とささやくぐらいで、おそらく、覚醒状態にすぐ戻る。あるいは、緊張をさそうような事態にすることでもよいであろう。仕事中なら、「社長が部屋に入ってきたよ」という小声で目を覚ますことができる。
 深く眠っていたとしても、いつまでも眠りこけていることは無理で、健康であれば、いつかは目覚めることになる。十分に寝た場合は、外的刺激なしで自ずと意識が外界へと向けて働きはじめる。そのきっかけは、外界からの快不快のささやかな刺激になることが多かろうが、刺激がなくても刺激をもとめて意識が動き始める。ひとの意識は、本源的に対象意識としてあり、外的刺激がなくなると、自分で対象をつまり幻覚を作り出していくことさえある。殊更に意識するもののない状態にあっても、遠くから虫の音が聞こえてくるというようなことになろう。こういった場合は、覚醒にとって、苦痛は無縁となる。苦痛が覚醒に必要となるのは、覚醒を妨げる眠り、眠気が強いときである。自己の世界に閉じこもって外界に向かうことを拒否し、強く眠りに引き込まれ続けているときである。苦痛という緊急信号、火急の対応を求める信号をもってして、強制的に眠りの自己閉鎖から引きずり出すこととなる。

目覚めを促す苦痛は、小さいものでありたいが・・

2023年10月03日 | 苦痛の価値論
3-6-2-1. 目覚めを促す苦痛は、小さいものでありたいが・・
 座禅で眠りそうになった時、覚醒させるためにと警策で打つが、棍棒で殴打することは求められない。かりに棍棒を使っても、身体を傷めつけるのとちがい、覚醒させるときは、つつく程度にして苦痛も小さいものにと手加減することであろう。相手が気づく程度にして、本格的な苦痛までにはならないようにするのが覚醒には一番であろう。覚醒だけを求める場合は、その辺の微妙な力加減がいる。もっとも、禅宗での座禅中の警策は(最近は、ほどほどのものにとどまっているようだが)、かつては、かなり本気になって殴打するようなことがあったという。拳骨をもって、「不届き者、目を覚ませ」と大きな苦痛を与えていたこともあると聞く。粗野な乱暴なことが普通だった時代には、相当に厳しい苦痛が覚醒のために使用されていたのであろう。眠気を払うためにと、錐で太ももを突くようなこともしたという。それでも、激痛を与えるとしても、損傷をもたらすことは、できるだけ回避しようとしたであろう。覚醒だけを求めるのなら、わざわざに余分となる苦痛や損傷を加える必要はないのである(座禅をしていると膝あたりの痛みが続くことになるが、この痛みは、覚醒をもたらさないように思われる。膝という箇所は自明で、注意をはらって対処するようなことではないから注意=覚醒は無用なのであろう。覚醒には、その痛みが、注意を払わせるようなものになっている必要がある。肩を警策で撃たれるとき、外からの突然の衝撃で、意識はおのずからに注意を払わされ、覚醒となるのであろう)。
 苦痛が強すぎると、覚醒は確実であっても、かりにそれで損傷は生じるまでにはなっていないとしても、苦痛のもつ嫌悪・拒絶反応が生じてその苦痛刺激の不快感を強くもつことになろう。人を起こすとき、不快の度を大きくしてしまうことがあり、その結果、せっかく起こしてやったのに、怒りをもって対応されてしまうようなことが生じる。眠りの深度が起床させるための苦痛刺激には大きくかかわる。深く眠っているのを起こすには、苦痛を大きくしないと覚醒させるまでにはならないであろう。浅い眠りの者の目覚めたベルに、ぐっすり眠っていた者は気がつかないようなことがある。逆に、よく寝て目覚める時間に近くなっておれば、ほんの小さな刺激で間に合う。苦痛を感じさせるまでもないことであろう。
 覚醒といっても、生理的なものではなく、怠惰とか悪の道に踏み外した状態から、それの悪であることを気づかせ「目を覚まさせる」というような場合の覚醒は、大きな苦痛が必要であろう。小さな苦痛では、それを我慢すれば済むことだと、堕落した生活からは立ち直ろうとしない。そこから抜け出す意欲を引き出すのは、二度と繰り返したくないような大きな、強い苦痛であろう。目覚める当人は、小さな苦痛の方が楽であるが、真に目覚めるためには、おそらく、大きな苦痛が必要である。小さな苦痛で覚醒・意識の鼓舞が済むのであれば、それに越したことはない。だが、それでは、大きな心の鼓舞にはなりにくい。鈍感な者、あるいは堕落した生に深くのめり込んでいる者を目覚めさせ鼓舞するには、小さい苦痛では目覚めず、やむを得ず、大きな苦痛を与えることが必要になることもあろう。小さな苦痛では、なかなか必死の覚悟は持ちにくい。大きな苦痛が人をしっかりと覚醒させるのではないか。

損傷ではなく、苦痛が覚醒させる

2023年09月26日 | 苦痛の価値論
3-6-2. 損傷ではなく、苦痛が覚醒させる
 覚醒は、意識を覚醒する。これを、自発的に現実世界へ向けさせたり、自覚状態にもたらすことである。苦痛刺激は、損傷が生じたと自身の危機を知らせるから微睡んではおれず、損傷とこれをもたらした外界へと意識を喚起して覚醒することになる。苦痛は、ふつうは、損傷を脳中枢に知らせるものとしてあるが、覚醒を求める場合は、損傷を生じないようにと配慮することが多い。苦痛のみがあって損傷なしの刺激が覚醒にはふさわしい。損傷が苦痛を生じるのが普通だが、覚醒作用をするのは、損傷ではない。寝ていて知らぬ間に損傷が生じていたとしても(就寝中のこたつによる低温やけどなど)、苦痛がなければ、安眠できる。苦痛が覚醒をもたらす。  
 内臓の損傷は、苦痛感覚をもたないことが多い。損傷がいくらあっても、痛まないから気づかず、その損傷自体は意識を覚醒したり鼓舞することはない。苦痛が、意識をわずらわし、時に、過敏状態にもしていく。単に損傷だけだと、これに気づいたとしても、心に大きなインパクトを与えるようなことは少ないのではないか。痛まないなら、損傷が大きいという場合は無視できないけれども、そうでなければ、血液検査で注意されても大したことではないと、無視することになろう。逆に、損傷はないか小さくても、痛みが強いと、意識は種々の気をまわし、覚醒させられることになろう。ときには、損傷は見つからない場合でも、痛みがあれば、安閑としてはおれず、痛みを止めてもらいたいと病院にいき、運が悪ければ損傷の発見となる。
 本源的には、外から損傷を受ける危機に、苦痛が情報をもたらし、これに応じて意識が外的世界へと覚醒するのであろうが、単に覚醒させるだけという場合は、損傷という生否定的なことのない方が好ましい。目を覚まさせるというとき、生理的に意識を取り戻すこととしての覚醒のためには、損傷等の生否定的なものをともなわないようにと注意しながら、軽く短い苦痛になるようなものを選ぶ。
 社会的な場面での精神の覚醒を求めるような場合は、損害・損傷を与える方が効果があるように思えなくもない。深刻に反省をしなくてはならないのに、単に主観的に苦痛を感じるだけでは、その場のことに終わる。しっかりと覚醒してもらうには、損傷をもってする方がいいことがあるかも知れない。何かに失敗したとき、口頭で注意されて苦痛を感じる場合と、減給の処分となって損傷を被るのとでは、相当に効き目は異なる。口頭での注意だけだと、その場では痛みを感じても、反省は、その時だけに終わることであろう。やり直しや減給までされるとなると、傷つき猛省して、結果大いに発奮することになりうる。もっとも、損傷が効果的だといっても、それに苦痛・苦悩を抱かない場合は、猛省はしないだろうから、やはり、苦痛が肝心であろうか。

何を覚醒させるのか

2023年09月19日 | 苦痛の価値論
3-6-1-1. 何を覚醒させるのか  
 毎朝の眠りからの覚醒と、人生を覚醒させるのとでは、まるで異なったものとなる。だが、いずれも、覚醒は、その心身とくに意識の停滞・休止状態からこれを活動状態にと高めるものであろう。
 日々の覚醒の対象である睡眠は、レム睡眠とノンレム睡眠が区別される。身体だけが眠っている状態と、心も眠っている状態の大別であろうか。身体が眠って活動停止状態になるのがレム睡眠で、心も眠って深くこの世界から隔絶状態になっているのがノンレム睡眠だという。身体だけが眠っている状態で心が覚醒に近くなっているときは、意識が存在しうる。金縛りとか幽体離脱は、レム睡眠中に起こるようである。眠っている身体を意識が動かそうとして動かず縛り付けられているように感じるのが金縛りで、身体を放置して、魂のみが自由に動く状態が幽体離脱になり、夜中好きなことが好きなようにできるという白昼夢に似た意識体験になる。夢を見る様態も両睡眠で異なるようである。この両睡眠のいずれから覚醒をさせるのかで、苦痛の与え方は異なることになるであろう。浅い睡眠状態のレム睡眠では、軽く刺激すれば起きることになる。
 通常目覚まし時計を使って覚醒させる場合、意識が無意識になって眠っている状態から、これを意識化し、自己に閉鎖して安らいでいるのをこの現実世界へと引きずり出してくる。睡眠中も、夢を見るなど脳は活動しており覚醒的ということになるが、いわゆる覚醒は、夢などのように意識が自己内で活動状態にあるだけではなく、外的世界へとつながりをもって現実的意識を回復した状態をいうのが普通であろう。身体の方がまだ寝ぼけているなら、こちらに重きを置いて身体を動かさねばならないようにして覚醒させることになろうか。目覚まし時計の音がけたたましいのでこれを停止するためにこの時計のベルを止める現実的な心身の動きからはじめる。そのことで意識はこの世界へと復帰して意識的活動を開始し、覚醒状態にとなっていく。その目覚めた通常の意識のある状態で、さらに一層の覚醒として、特定の事柄に気づかされるようなとき、目が覚めたとか覚醒をいうこともある。
 人生の覚醒も、やはり、ひとの心・魂の覚醒である。苦痛がしばしば意識されねばならないことでは、日々の生理的な覚醒と同様である。恵まれた環境のもとに育って安閑としているものは、半ば眠りこけている状態であり、これを覚醒させることが必要になるときがある。かわいい子には旅をさせよという。修行遍歴をいうような国もあった。若者は、冒険の旅に出て、艱難辛苦を経験することをもっておのれの能力を覚醒・開発した。 
 いずれの眠りにせよ、そこから現実世界へと意識を活動的にし覚醒するには、損傷への緊急信号である苦痛によることが多い。日々の睡眠からの覚醒は勿論、社会生活における精神の覚醒・能力開発も、苦痛(苦悩・苦労)を大なり小なり媒介にする。

覚醒剤は、覚醒して頭を冴えさせるというが、苦痛もそうか

2023年09月12日 | 苦痛の価値論
3-6-1. 覚醒剤は、覚醒して頭を冴えさせるというが、苦痛もそうか  
 戦前戦後、作家などにも流行ったヒロポン(覚醒剤)は、覚醒して眠気を吹き飛ばすのみでなく、万能感をいだかせ、冴えた状態になったという。苦痛での覚醒でも、冴えた頭の状態をもたらすことがあるかも知れない。心身の苦痛が感覚を過敏にすることはよくある。生は、その苦痛・損傷に火急の全力の対応をする必要があるから、もてる自身の能力を最大にしようとする。そこでは、その損傷対応のみでなく、生の全般を冴えた状態にすることもありそうである。
 長らく苦痛を味わうことになる病いにおいて、ときに人の異常な能力を見せることがあるといわれる。苦痛を抱く場合、心身は危機的な反応をすることになり、その反応は損傷に対応するだけではなく、生全般について異常に意識を高ぶらせるものともなりそうである。損傷についての意識にとどまらず、意識自体を異常に集中させ高ぶらせ、その異常に、意識は常人には見えないものを見出す。精神的な病いになったひとが突然、すばらしい芸術を創造しだし、病気が治ったら凡人に帰ったといった話をときに耳にする。画家が、狂気の状態で苦しんでいる間、才能を発揮したが、病気が治ったら凡人になって駄作しか描けなくなったというのである。歌人で医者であった斎藤茂吉が、正岡子規あたりを念頭においてだったと思うが、病気がすぐれた詩を可能にしていて、病気が治ったら凡人になるだろうというようなことを書いていた。子規は、長く病いに苦しめられた。結核で10年あまり苦しみ続け34歳で亡くなった。その病いの苦痛が優れた詩作の源になったのであろうか。苦痛による覚醒は、単に眠りから覚ますだけではなく、場合によっては、意識全般を覚醒してその高揚をもたらすことがあるといってよいのかも知れない。 
 鬼のもつ「打ち出の小づち」は、人や物を殴打する道具であろうが、価値あるものを打ち出した。ほかに鬼の宝物として「杖」「しもつ(笞)」を御伽草子の『一寸法師』ではあげているが、いずれも、身体をうって痛みを与えるものである。小槌は、こぶを作って一寸法師の身長をその分大きくしたであろうが、それは、一時的で、すぐもとにと戻る。殴打での破壊自体には、価値創造力はなさそうで、やはり、(小槌による)痛みが価値を創造したのであろう。鬼がひとを殺傷するのであれば、その道具は何といっても刀類である。小槌はもとより、杖も笞も、損傷よりは、苦痛を与えるのを第一にした道具であろう。それを鬼からの宝もの(価値、あるいは価値を生み出すもの)とひとは受け取った。殴打でもって苦痛・ショックを与え、異常時の異常な力を心身にもたらすということだったのであろう。筋肉を強化するには、いまでも基本は苦痛を与え、筋肉痛が残るぐらいの強い負荷・苦痛を加えることであろう。精神的生においても、かわいい子には旅をさせよという。冷たい社会に出て痛め付けられてこそ強い精神は獲得可能になる。痛みでの覚醒作用は、単に意識を回復し注意を喚起するというのみでなく、もっと広く人の心を覚醒させて鼓舞するものになりうるのであろう。それによって眠っていた能力が目覚めることもある。快にまどろむ状態では、心身の活動・能力は鼓舞されない。その反対の極にある苦痛は、意識を覚醒して活動状態にしていくから、その延長上に、心的活動全般を鼓舞していく可能性をもつ。