損傷ではなく、苦痛が覚醒させる

2023年09月26日 | 苦痛の価値論
3-6-2. 損傷ではなく、苦痛が覚醒させる
 覚醒は、意識を覚醒する。これを、自発的に現実世界へ向けさせたり、自覚状態にもたらすことである。苦痛刺激は、損傷が生じたと自身の危機を知らせるから微睡んではおれず、損傷とこれをもたらした外界へと意識を喚起して覚醒することになる。苦痛は、ふつうは、損傷を脳中枢に知らせるものとしてあるが、覚醒を求める場合は、損傷を生じないようにと配慮することが多い。苦痛のみがあって損傷なしの刺激が覚醒にはふさわしい。損傷が苦痛を生じるのが普通だが、覚醒作用をするのは、損傷ではない。寝ていて知らぬ間に損傷が生じていたとしても(就寝中のこたつによる低温やけどなど)、苦痛がなければ、安眠できる。苦痛が覚醒をもたらす。  
 内臓の損傷は、苦痛感覚をもたないことが多い。損傷がいくらあっても、痛まないから気づかず、その損傷自体は意識を覚醒したり鼓舞することはない。苦痛が、意識をわずらわし、時に、過敏状態にもしていく。単に損傷だけだと、これに気づいたとしても、心に大きなインパクトを与えるようなことは少ないのではないか。痛まないなら、損傷が大きいという場合は無視できないけれども、そうでなければ、血液検査で注意されても大したことではないと、無視することになろう。逆に、損傷はないか小さくても、痛みが強いと、意識は種々の気をまわし、覚醒させられることになろう。ときには、損傷は見つからない場合でも、痛みがあれば、安閑としてはおれず、痛みを止めてもらいたいと病院にいき、運が悪ければ損傷の発見となる。
 本源的には、外から損傷を受ける危機に、苦痛が情報をもたらし、これに応じて意識が外的世界へと覚醒するのであろうが、単に覚醒させるだけという場合は、損傷という生否定的なことのない方が好ましい。目を覚まさせるというとき、生理的に意識を取り戻すこととしての覚醒のためには、損傷等の生否定的なものをともなわないようにと注意しながら、軽く短い苦痛になるようなものを選ぶ。
 社会的な場面での精神の覚醒を求めるような場合は、損害・損傷を与える方が効果があるように思えなくもない。深刻に反省をしなくてはならないのに、単に主観的に苦痛を感じるだけでは、その場のことに終わる。しっかりと覚醒してもらうには、損傷をもってする方がいいことがあるかも知れない。何かに失敗したとき、口頭で注意されて苦痛を感じる場合と、減給の処分となって損傷を被るのとでは、相当に効き目は異なる。口頭での注意だけだと、その場では痛みを感じても、反省は、その時だけに終わることであろう。やり直しや減給までされるとなると、傷つき猛省して、結果大いに発奮することになりうる。もっとも、損傷が効果的だといっても、それに苦痛・苦悩を抱かない場合は、猛省はしないだろうから、やはり、苦痛が肝心であろうか。
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