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「老いて死なぬは、悪なり」といいますから、そろそろ逝かねばならないのですが・・・

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覚醒価値-苦痛は、覚醒の働きをする 

2023年09月05日 | 苦痛の価値論
3-6. 覚醒価値-苦痛は、覚醒の働きをする 
 苦痛は、ひとに嫌悪、焦燥、抑うつなどの不快をもたらす反価値感情であるが、同時に、損傷を気づかせるものとしては、大切な情報価値となる。さらに、反価値の代表であろう苦痛が、別の価値をもつこともある。そのひとつが、覚醒をもたらす刺激として、覚醒価値とでもいう面を有していることである。
 苦痛は、快が微睡ませるのと逆で、受傷で危機的状態になっていることを知らせ、無視・放置しがたいものとして人の意識を奮い起こす。意識を覚醒させる。覚醒を求める場合、意識を刺激して活動的にするためにと、苦痛を与えることがある。睡眠からの覚醒には、目覚まし時計を鳴らすが、心地よいものなら安楽に眠りを延長させることであろう。不快・苦痛をもたらすような刺激が覚醒を導く。目覚まし時計は、不快な音を出して放置できない刺激を与え、この音を止めねばと意識を現実へと引き戻す。
 驚きも人を覚醒する。これは、思いがけないものに目を見張りこれを凝視して、その情報をとりこもうとする感情で、かならずしも苦痛に関わらない。好ましい新奇なものが出てきて凝視する驚喜は、快感情である。驚きの感情の表情は、目を丸く見開いたものになろう。これは、眠りから覚める状態ではとらない。とれない。眠りから覚めるときは、まず、しかめ面をして目蓋を少しずつ開いていく。そうして意識を取り戻して、新奇の驚くべきものがあれば、目をもっと見開いて驚くのである。目覚めには、外からの無視できない苦痛等の刺激で意識を取り戻し、おろした目蓋を開くことがなくてはならない。眠りでは目は蓋を閉じていてそとからの刺激を受け付けない状態なので、まずは、蓋をもたず外界と常時連絡のとれる耳、音に頼るのが普通である。耳は眠っているときも、外からの音を受け入れる身体的な構造になっている。古い時代の戦いでは、みんなの眠る夜中、不寝番は、拍子木を打ったり、弓の弦を鳴らして(魔よけの鳴弦、つるうち)安心させていたようである。その眠っている者の耳に、安心せよとの心地よい音ではなく、不快な起床の呼びかけの刺激を、意識を呼び起こすようなほどほどの苦痛刺激を与えるのが目覚まし時計であろう。
 ひとを起こそうと行動する場合は、痛みを引き起こすぐらいに叩くとか、つねる等の振る舞いをすることもある。やさしく抱いたり、リズムをとってソフトに触れるのは、安らかに眠れというときである。眠気を醒ますには、逆に、冷水をあびるとか、打つとか刺すとか適度に痛覚を刺激して痛みを加える。苦痛は、生に危機を知らせる感覚であり、意識の即時的な対応を求めて、覚醒にと人を導く。

自責の念は、苦痛で慰められる

2023年08月29日 | 苦痛の価値論
3-5-7. 自責の念は、苦痛で慰められる   
 損傷・苦痛をひとに与えてしまい、その責任を深刻に受け止めることがある。責任を果たすには、自身がその損害・苦痛をできるかぎり償うようにすることであるが、それでも、なお、その過失への後悔の念に苦しむ者は、単に償うだけではなく、厳しく自身を罰しなくては自らを許せず、自身を痛めつけて、与えた苦痛の何倍もの苦痛を甘受しなくては落ち着けないというような場合がある。
 報復律にしたがって同じ損傷で報いて一応の相互の納得はいくことであろう。「歯には歯を」にしたがい、同じ損傷、補償をもって体裁は整う。だが、真にその損傷・苦痛に責任を感じている者は、それでは気が済まず、相手が自分の過失で苦痛を抱いたであろう、そのあらゆる苦痛をしっかりと感じようとすることであろう。敵対している者とか無縁の者への損傷・苦痛であった場合は、報復律で済ませられることが多かろうが、自身の過失で、味方、有縁の者に損傷・苦痛を与えた場合、後悔してもしきれず、与えた苦痛の何倍もの苦痛を自身に加えるのでないと、気が済まないこととなる。損壊という愚かしい行為へのお詫びは、同じものを弁償すれば一応片付くことではあるが、与えた主観的な苦痛は、そうはいかない。犯したことへの償いの苦痛は、自身で測る以外ないが、自身の気が済むようにするには、なるべく大きく、耐え難い苦痛をもってしなくては収まらないであろう。苦痛で自身をいためつけることが大きいほど、こころは慰められることになる。
 傷に塩をぬりこんで苦痛を幾重にも加えることは、一般的には唾棄されることで、苦痛は悪魔的な反価値となるが、損傷・苦痛を過失で与えてしまった場合、そしてそのことを取り返しのつかないことをしたと、悔やんでも悔やみきれない思いを抱いている場合、自身がその何倍もの損傷・苦痛を被るのでないと、心は落ち着かない。ここでは、二重三重の苦痛の在り方を自身が求めることになる。いじめられた者は、一生その苦痛を忘れないという。いじめを猛省する者は、それを想像して一生自身苦しまねばならないと思う。死亡事故の責任を感じる者は、残された家族が一生悲しみ苦しみを味わうのだと思うと、どんな償いをしても、どんな苦痛をもってしても償いきれないと悔み続ける。傷に塩をぬりこむような苦痛が、むしろ、自身を慰めることになる。

苦痛を、過去の報いとし、未来への投資ともする

2023年08月22日 | 苦痛の価値論
3-5-6. 苦痛を、過去の報いとし、未来への投資ともする
 ひとは、苦痛を無視できない。それの持つ意味を考えてしまう。どんなものも存在理由をもち、どんな偶然でも因果法則に縛られていることで、苦痛もそれを逃れることはできない。苦痛は、何らかの結果であり、したがって、その原因を思うことになる。そして、未来に向けて、いまの苦痛が原因になって、未来にそれに見合う結果が生じるはずだとも考える。
 苦痛は大きなマイナス、反価値であり、到底無視することのできないような、自身のもとで生じた事件である。それを過去方向に因果で見るときには、その生じている耐え難い苦痛の反価値に見合うことを、自身あるいは自身の関係ある何かが作ったと穿鑿していく。原因を探しだして、いまの苦痛に納得しようとする。おそらく多くは偶然に生じたことであるが、偶然にしてもその原因は多々あるはずで、その原因を深刻に探索しようとする。自身の過去に何か後ろめたいものを思いつくと、それにしたがって、今の自分はその過去の償いをして、その罰を受けねばならないのだと納得する。そこで親の因果が子に報いというようなことを言われて、これに納得する者も出てくる。自分の苦悩が先祖の罪を背負うことになっているのなら、先祖のためにこの苦しみをより大きなものにしてでも受けて、先祖の魂の救済をして行こうという気になったりもする。それで先祖と一体的になれて安堵することも可能になる。 
 未来方向に苦痛を受け止めることもある。苦痛で落ち込んでおれば、その先を悲観的に想像することになるが、逆に、この苦難に耐えるなら、自分が大きく成長すると、楽天的に思うこともある。さらには、神や社会が自身に試練を与えているのだ、自分は選らばれているのだと考えれば、その現在の苦痛は未来の巨大な価値に転換されるものとして大いに耐え甲斐のあるものとなる。未来に得られる価値を大きいものにしたいと思えば、現在の苦痛をより大きくより長く耐えていこうという気にもなりうるであろう。それがしっかりした目的の確実な手段としての苦痛なら、万人がこれに忍耐する。そうでなく、漠然とした未来の結果を描くことでも、多くの宗教にみられるようにその結果は来世にあると信じうるならば死ぬまで、種々の苦痛を未来・来世の価値へと読み替えてこれを積極的に受け入れていくこともできる。

惨めさや痛みは、主観的で変えることができる  

2023年08月15日 | 苦痛の価値論
3-5-5. 惨めさや痛みは、主観的で変えることができる
 現代から見ると過去の世界は、貧富・身分等の差が大きく、劣等に置かれた者の惨めさは耐え難いものに見える。生来の素質にしても、美醜等の扱いでの差別は、露骨であった。だが、そこで差別される者たちは、意外に平穏に過ごしていたように思われる。現代からいうと、到底我慢できないような差別を当然として、これを平然と受け流していた。差別とか優劣は、まずは、これを比較することの可能な場をもたねばならないが、その場がなく無関係にと放置できれば、劣等とか醜貧の意識は意外にもたないで、したがって、惨めな思いも持たずに済んだ。現代は、情報過多で、アメリカのお金持ちの贅沢な私生活も、世界の僻地といわれるようなところでの飢餓線上にあるような生活も手に取るようにわかることである。生活は、プライバシー保護を言わねばならないほどに白日の下に晒され、比較は、天から地までのものがなされうるから、下位にあるものは、下位をしっかりと自覚させられて、下位ということを意識すれば、惨めさを感じさせられることである。
 たとえ貧苦にある自分と富者・恵まれた者との関係が敵対的というのでなく、友好関係にあったり家族・親戚の者だとすると、自分もその恵まれているものたちの一員に近いものと感じて、惨めさとは反対の、恵みを感じるのではないか。貧困の親が、わが子や孫の社会的成功を快としても、不快に思うことはない。社会生活では、家族は一体的で、もう一人の自分扱いだが、その外の者については、現在は個人主義が支配的だから、他者が恵まれていても自分が恵まれてない場合、優劣を敵対的な関係のもとに感じて、惨めさを感じるであろう。だが、個人主義的でない社会では、底辺の者でも、頂点に生活する者の在り様を見聞きした場合、嫉妬などすることなく、無縁の別世界と見るか、自分の家族のそれに抱くように、喜びを共有できていたことでもあろう。極貧の少女は、王家のお姫様の不幸の話に涙し、そのハッピーエンディングに喜びを感じえた。敵対・個人主義の下では、相手の価値は自分には無価値・反価値だが、味方・同類といった見方においては、いまでも家族の喜びは自分の喜びであるように、喜びとしえたのではないか。
 惨めとか貧困とか醜さ等は、かなり主観的評価であって、その価値評価は簡単に変えることができる。美醜とか貧富などの価値観自体をどうでもいい些事とみなせるなら、そこでの劣等などに自身を卑下することも、悲観的な感情をもつこともなくなる。個人主義の社会でも、共に暮らす家族の喜び・悲しみは、自身のそれにすることが可能である。祖先にまで自己同一化するなら、祖先の因果を身に引き受けて、「親の因果が子に報い」を穏やかに受け入れることができるようにもなろう。自身が醜・貧等にあって苦痛であるとしても、美・富と無関係と諦念するか、個を自覚することなく美・富の保持者に一体感を抱けるなら、それから疎外されているとは感じず、苦痛でもなくなる。生理的苦痛は簡単ではなかろうが、社会的精神的苦痛なら、よいことかどうかは分からないが、簡単に「火もまた涼し」という転倒した心境になりうる。

苦しむ者には、さらなる苦しみを

2023年08月08日 | 苦痛の価値論
3-5-4. 苦しむ者には、さらなる苦しみを  
 難病で苦しむものは、それだけでは済まないことが多い。その病気をはじめとして一層多くの苦難が待ち構えている。逆に、心身に恵まれている者は、それだけではなく、その上に、社会的に恵まれた活躍の場を得て、種々の恵みが与えられていく。例外も多いが、貧困に生まれたものは、死ぬまで貧困で、これを重ねていき、富者のうちに生まれたものは、恵まれた育ち方をし、一層の富者となって死ぬまで豊かに暮らすことである。
 恵まれた者がいよいよ恵みを多く享受していくことは、それから外されている者にも、それで害を受けるのでなければ、自分には運がなかったのだとあきらめがつく。あるいは、それが身近なひとであれば、ともに喜ぶこともできる。だが、恵まれていないこと、不運に苦難を甘受させられることには抗議したくなろう。自分に責任のあるものなら、やむを得ないこととして、我慢もする。だが、そうでないこと、例えば、美醜とか賢愚で、醜・愚をもって生まれた者には、それから種々の苦しみが一生付け加えられていくが、何の責任もないことである。これには納得できず、造物主に抗議したくなる。悪魔はいるとしても、慈悲の神など存在しないことを、何かあるたびに、苦痛が思い知らせてくれる。
 苦痛は、傷口に塩をぬって二重三重にひとを苦しめるもので、とんでもない反価値だということが生じるが、人生では、苦しみについて、重ねて塩をすり込むようなことが結構ある。次から次へと苦難が付け加えられていく。ただし、その不運続きに、それが自然・人生なのだと納得する人もいる。「憂きことの、なおこの上に積もれかし、限りある身の力ためさん」(熊沢蕃山?)と居直り、チャレンジ精神を奮い起こす。恵まれているかどうかということ自体は一つの解釈であり、どんなに周囲からは苦難と見えていても当人はそうは思わず、それを自然と見たり、神与のありがたい試練ととらえることもある。苦しみは、これが続くと慣れてしまい、それが平常となって、苦と感じなくなることも多い。宗教にはまって、周囲の悲嘆をよそに、悲惨なはずの当人が至福にひたっているというようなこともまれではない。
 野生の動物など、生まれてから翌年まで生き残れるのは、わずかである。魚の卵とか稚魚など、ほぼすべてと言っても過言ではない数が、他の生き物のえさになって果てる。天候しだいで飢え死にしたり、獲物になって生を終わることもごくありふれた自然の営みである。ひとでも、最近まで、長く生きられるのは特殊で、七五三のお祝いはよくぞその年まで生きてくれたということであった。早世するのが普通であった。生存競争では、とくに戦争ともなれば、古くは、命を奪われることが普通で、奴隷として生き残れるのはラッキーだった。それらを、不運だ不幸だ苦痛だということで悲嘆するのは、それこそ特別に恵まれた王家の者ぐらいだったであろう(王も、不作、災い続きなら、責任をとらされ殺害されていた)。恵まれたものはいたが、ごくごくまれで、それ以外は、いまから見れば圧倒的に恵みの少ない人生だったということになる。が、その当時は、それが世の一般的状況であり、人は適応能力に富むから、それに慣れてこれを平常と見なし、不運とも不幸とも感じていなかったことが多かろう。