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「老いて死なぬは、悪なり」といいますから、そろそろ逝かねばならないのですが・・・

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苦痛は、意識(注目)することを強いる

2023年11月14日 | 苦痛の価値論
3-6-5-1. 苦痛は、意識(注目)することを強いる
 意識は、無意識から覚醒した状態をいうだけでなく、覚醒状態の中でさらに一点にと焦点を合わせ、注視・注目することを指す場合がある。この一点への注目・注視の意識にも苦痛はしっかりとかかわる。けがをして苦痛が生じるとき、苦痛は無視を許さず注視することを強制する。歯が痛めば、虫歯にと意識が集中し注目が強制される。
 覚醒状態であっても、習慣化したものは、自動化して、無自覚、無意識的な状態になる。だが、そこに異変が生じたとき、その自動化し習慣化したものをチェックすることが必要となる。注視・注目して、その習慣化したものを見直してチェックすることになる。その習慣化したものの一々のステップに注目して、これを意識化しスポットライトを当てながら見直していく。心身の全体を担い指令・統率している私が前面に出て、そのスポットライトを当てたところをチェックし、必要な記憶情報を呼び出して、あるべき対応を指示していく。その注視を主観的に自覚しつつ展開するのが、一点に集中した意識ということになろう。
 苦痛は、この一点への集中した意識についても、これを鼓舞する、というか、それを強制する。苦痛は、無視できない。苦痛は、意識をそれへと集中して注目するようにと強いる。一点にスポットライトを当てて意識を集中することは、ひとの自律的な自由の営為である意志の活動に典型的であるが、苦痛による意識集中の場合は、自由の営為ではなく、意識が注視へと一点集中へと強制されるのである。無視しようと思っても、これを無視することができず、注視が強制される。意志をもっての能動的な意識集中に対しては、この苦痛によって強制される意識は、受動的意識集中とでも言えようか。
 苦痛によって意識集中が強いられる場合、その苦痛の原因の損傷へと注目も進む。ひとつには、苦痛関連の情報をそこに集めていくことがあり、あるべき対応の指示もそこに集められ統合統率される。その苦痛にともなう感情もその意識集中のもとに生起してくる。苦痛があれば、心配になり、場合によっては死を想像し、不安、恐怖、怒り等の感情が自ずと生起してくる。そのことで苦痛への全面的な対応が可能となる。
 この意識(注意集中)においては、しばしば意識はその一点から一層限定した一点へと集中していくが、それに応じて、ほかのことは、一層、視野の外へと無視され、不注意となる。視野が極度に狭くなる。痛みに意識が集中させられた状態では、ほかのことはうわの空となる。この一点集中による他の事態の無視、意識からの排除は、意識集中においては、常に生じる。それは、いやな苦痛を離れるためにも使われうる。不安という苦痛の状態に囚われて意識がそれに占領されている時、これから逃れるには、(一点への)その意識集中をあえて別のものに向ければよい。月に、花に気を向けるようにし、それへと意識が集中すれば、そのスポットライトを当てたものに意識・気は奪われる。花なら雄蕊や花弁の様子にと一層注意を深め、これにさらに意識は集中して、不安の意識は、うわの空になって、不安を離れうる。

意識を覚醒させる苦痛

2023年11月07日 | 苦痛の価値論
3-6-5. 意識を覚醒させる苦痛    
 眠った無意識状態から刺激を与えられて意識は回復し目覚めるが、その手段となる刺激は、快ではなく、不快、苦痛の方がスムースであろう。快では、心地よく微睡み、眠ることになる。逆に苦痛は、覚醒させる。痛みは、ひとを快の夢うつつから目覚めさせる代表的な手段となる。起きろと、布団をはぎ取って寒風を感じさせたり、体をたたいて起床を促す。禅で眠くなったとき警策で殴打することがある。苦痛が、研ぎ澄まされた意識を覚醒させる。
 この覚醒状態になる意識は、広義の意識である。何かに注意集中するときにいう意識ではない。この世に連れ戻し、眠り等の無意識から意識へと回復するときの意識である。それは、知情意等の心の活動を、その統御主体(私)が、自身の営為として自覚できる状態にすることであろう。無意識でも、心の活動はある。だが、それは、自身には自覚できない。その心の活動を自身が自覚できている主観的体験が、意識になろう。苦痛は、ひとにとって、緊急事態が生じたことを知らせる信号であり、心身を統括している私(統覚主体)は、ぼんやりと他人事にすまして傍観などしている場合ではなく、自分のこととして自覚的に意識をもって対処していくことが必要となる。心身を統括し指令を出していく人格主体の私自身が自らのこととの自覚をもって、自身のうちの全情報を集め、全手段をもって対処していける状態になっているのが、意識になろう。
 逆に意識を失う、なくするという状態になる場合は、そういう現実世界への自覚をもっての対処ができなくなっていく。酩酊とか眠りということになる。それは、心の動きが鈍化し、心身を統率するこの私という人格主体が自覚的な働きを失うことであろう。対象世界を認識する心の動きが鈍化・停滞し、これを統括する自身が麻痺状態になって、やがて無意識にとなっていく。苦痛では、限度を超えた耐えがたいものになるとき、そういうことが生じる。激烈な苦痛を前にすると、統括主体の自身は逃げ出したくなり、その極においては、気絶、失神ということで、無意識になって苦痛を感じないようになる。特に精神的な苦痛はその人格と深く結びついているので、耐えられない苦痛がまといつく場合、人格主体自体を棄てて、他人事にと離人症的になったり、その苦痛体験を自分の意識・自覚のうちには残さず健忘症となったりもする。苦痛を持たざるをえなくなっている自己・主体を棄てて、別の人格を作りこれに新規に生きるというようなことにもなる。

快は、眠りを誘い、苦痛は、覚醒をもたらす 

2023年10月31日 | 苦痛の価値論
3-6-4. 快は、眠りを誘い、苦痛は、覚醒をもたらす
 事がうまくいって快であれば、疲れていたりすると気を緩めて、やがて眠り込む。苦痛は、逆で、危機的なことを示し、意識を集中して対処せよと自身に命じる。自動車の運転は、高速道をスムースに走れる状態では気持ちよく快で、しばしば眠りを誘う。だが、事故に巻き込まれたり、場合によるとこれを見ただけでも、つまり、損傷・苦痛を身近にすると、眠気は吹き飛び、一瞬にして覚醒状態になる。
 快は、良好な状態にあるということだから、そのことに注意する必要がなく、意識はそこでは無用となって眠り込む。興奮させるような快の種類だと、意識は覚醒を続けるが、これも、疲れてくれば、意識をしていないと危うい事態が生じるというようなことがなく安楽な状態にあるのだとしたら、心地よく眠りにと導かれることであろう。逆に、なにか不快・苦痛があるとは、生の損傷の可能性を語るのであり、快とちがい、その危機的状態や損傷のあるかぎり、苦痛はこれを知らせつづけ、意識は、覚醒してその対処を迫られる。
 眠りは、無意識化しているから快でも苦痛でもないが、その眠りに誘われることは、これへの欲求は、時に強くなり、これを充たすことは、大きな快楽となる。睡眠は、食・性とともに生理的な大きな欲求である。心身が疲労して休息の必要な状態になっておれば、眠ることが欲求となり、これを充足することは快で、これを妨げるものがなければ、この快を満たそうと眠りに近づいて眠りに入っていく。快と眠りは親和的である。快も眠りも、警戒を解き、無防備状態をまねく。眠りは、覚醒時の諸機能を休ませるので休息になるが、そこを襲われると襲うものの思うままとなり、損傷を受ける。苦痛がその状態から救い出す。苦痛になったら、即、覚醒して身構える。損傷をうけ苦痛を抱き続けると、さらに火急の対処をと一層の覚醒と緊張をさそわれることになる。 
 この苦痛による覚醒は、生理的なものに限らない。精神的社会的な短期・長期の覚醒も、苦痛のもたらすことが多い。かわいい子には旅をさせよという。手元においていたのでは、苦労する場面で手を出してしまい、子は苦痛を味わうことがなくなる。それ以上に、快適な状態に置かれると、精神はまどろみ、安楽からより安楽へと向かい快楽主義的な怠け者になってしまう。だが、外の厳しい環境におかれ、手助けもなければ、苦労・苦闘の体験を多くもち、しかも、それは自身で解決する以外ないのである。親元での快適な生活では味わえない苦痛体験を繰り返すことになる。苦痛によって精神が覚醒状態になり、苦痛解決への努力を自身がしなくてはならなくなる。苦痛は、ひとを全般的に鍛え上げる。


苦痛が起床を促すより、起床が苦痛になる方が多かろう

2023年10月24日 | 苦痛の価値論
3-6-3-2. 苦痛が起床を促すより、起床が苦痛になる方が多かろう 
 本論考は、苦痛をテーマにしているので、苦痛は覚醒価値をもつと、苦痛によって目覚めることを主として見ているが、苦痛ということで起床時に想起するのは、苦痛に覚醒作用があるというより、目覚めること自体が苦痛ということの方が多かろう。
 睡眠欲は大きく、この欲求を中断させることは苦痛である。起きるときの苦痛で想起するものは、多くは、この欲求を、その快楽を中断させられる不快感であろう。起きること、覚醒への刺激としての苦痛は、あるとしても大したものではないが、起きかけての、まだ寝ていたいという欲求の抑止される不快・苦痛は大きい。覚醒時の一番の苦痛は、目覚まし時計の不快ではなく、睡眠欲自体を中断される不満・苦痛である。食欲、性欲とならんで大きな生理的欲求としてあるのが睡眠欲であり、これを中断・妨害されるのだから、その不快感は強い。
 覚醒させる目覚まし時計などの苦痛は、苦痛といえるかどうかというぐらいである。かりにベルが大きな苦痛刺激だったとしても、眠っている段階では、つまり無意識・無感覚では苦痛は意識されない。それを意識する段階では苦痛だとしても、すぐ目覚ましの音を止めるのであって、苦痛を感じることはおそらくほとんどないのが普通であろう。これに対して、もっと寝ていたいという睡眠欲は覚醒時に大いに働く。意識がもどって布団の中で暖かく気持ちいい状態を続けていたいのに、それを中断して、欲求不充足にするのであり、眠気がとれるまで、その不快・苦痛は持続する。覚醒時の一番の苦痛は、目覚まし時計の覚醒させる苦痛ではなく、もっと寝ていたいという快楽を中断させられる欲求不満の苦痛の方になる。
 眠っているのではなく、起きていて眠気がさすとき、その眠気を抑止するために、覚醒の苦痛を与えることがあるが、これは、結構しっかりとした苦痛と自覚される。そこでは、眠気、睡眠欲求が生じているのであるが、この欲求を抑止される不満・不快は、それほど大きくはないであろう。まだ、布団の中で睡眠の快楽をむさぼっている状態ではなく、その睡眠欲は未だ充足できず快は感じていないのだから、無い快楽をまだ無いままにしているだけで、不快は小さい。それに対して、眠い時の苦痛刺激は、まだ起きていて感覚はあるのだから、はじめから苦痛と意識されることで、この苦痛は大きい。水をかぶって眠気を覚ますとして、そこでの睡眠欲求不充足は感じないぐらいに小さいが、覚醒刺激としての苦痛は大きく、冷水をかぶる場合など、結構持続する苦痛となるであろう。
 起床時の睡眠欲不充足の不快・苦痛は、はっきりとした苦痛であるが、この苦痛も、一応は、覚醒に資するものであろう。眠たいのでその快楽を充足して再度寝ようとするのを抑止するとき抱く不快・苦痛は、覚醒に資するものではない感じだが、やはり、覚醒につながろう。その苦痛から逃げて再び眠るのではなく、その苦痛を耐えて苦痛を感じ続ける以上は、その苦痛は、意識を刺激し活動する方向に向けるから、覚醒を促す。

眠気を覚ますのも、やはり苦痛が多かろう

2023年10月17日 | 苦痛の価値論
3-6-3-1. 眠気を覚ますのも、やはり苦痛が多かろう
 起きている者を眠らせないようにする方法は、眠っている者を覚醒させるのとは異なったものになる。眠気をさますには、意識があるのだから、コーヒーを飲むとか、刺激の強い酸っぱいものを口にして味覚を使うようなことも可能である。もちろん、音や光・匂いでも可能であろう。触覚では、痛覚が、結構それの強いものが求められる。眠ることが大変な事態を招くのなら、眠らないようにと損傷もいとわず痛覚を強く刺激する。錐で自分の足を突いてというような乱暴なこともある。眠くなった時、冷水をかぶるというのは、一昔前のよくとられた方法であろう。これは、かなり大きな苦痛をもたらす。そのことで一気に眠気を吹き飛ばした。眠りそうになり微睡かけていても、まちがいなく眠気がとれる。
 眠気があるとき、快適・安楽の状態だと、一層眠りへと誘われるであろう。逆に、不快・苦痛があると、この刺激が眠気を一時的にストップすることになる。苦痛は、自身において危機・火急の状態が発生していることを知らせる刺激であるから、眠気が生じて意識が微睡んでいる状態であった場合、睡眠からの覚醒と同様に、これを吹き飛ばして鮮明な意識状態を可能にする。
 睡眠から覚醒へという場合は、自身で自覚してなにかの方法をその場でとることはできないが、眠い状態のときは、その眠気を吹き飛ばすために自身で意識して種々の方法をとりうる。そこでも、睡眠からの覚醒と同じく、やはり、苦痛を利用することが多かろう。自身の頬を平手で打つとか、つねったりする。風呂で冷水や熱い湯を浴びて痛覚が働くようにすることもある。あるいは、意識自体を一層働かせる方法もとって、何か心身を動かすようなことをして、覚醒を促す。心身を自覚的に動かす場合、意識が働いてそれに向かわねばならないから、意識は活動的にならざるをえない。眠くなったら、歩いてみるとか、体操をしてみるといった身体を動かすようにともっていき、現実的意識を活動させ、覚醒を維持する。TVでのだらだらした野球中継には眠くなるが、そこで乱闘でも生じれば、みんな目を見張ってみる。乱闘になれば、自分もそういう活動的な気分になり、心身が覚醒状態になる。ボクシングの打ち合いを見る場合、眠くなることはあまりないのではないか。
 何か強く期待していることが実現するようなときには、その期待をかなえられるようにと、意識が覚醒するだろうし、期待するものの享受を思って意識がそれを先取りして活発に動いて眠れないというようなこともあろうか。苦痛による危機意識の覚醒ではなく、期待するものの先取りをもっての意識の高揚もまた眠らせないものとなる。ただし、痛みなら、自身で何とかすぐにでも起こせるが、驚喜させるようなものは、自身で簡単には生じさせられないから、やはり、確実に眠気をとる方法というと、苦痛をもってすることになろうか。