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「老いて死なぬは、悪なり」といいますから、そろそろ逝かねばならないのですが・・・

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不安・安心と、皮膚の痛み・快の異同

2023年12月19日 | 苦痛の価値論
3-7-1-1. 不安・安心と、皮膚の痛み・快の異同 
 不安・安心と、皮膚の痛み・快では、それぞれの後者、安心と皮膚の快は、痛み・不安があって、これの消失したことにいだく快になる。安心の方は、よく意識する快感情だが、皮膚の良好状態は、快と意識するような積極的な感情とはならないのが一般であろう。皮膚の場合、その安心に相当する快適な状態は、通常は無にとどまる。
 不安は危険の可能性にいだくもので、それがなくなった状態は、安心・安堵として積極的に快感として成立する。だが、皮膚の場合、損傷に苦痛を感じるけれども、それが解消できている状態は、苦痛がないだけで、快を積極的に感じることはなかろう。皮膚には痛覚はあるが、冷覚に対する温覚のような、対立的な快覚はない。不安のなくなった反対の安心はあるが、皮膚の痛みのなくなった状態は、本質的には無にとどまるのではないか。痛みが消えた瞬時は、痛みでの緊張を解いた弛緩の感覚はもつだろうが、皮膚自体に積極的な快を感じるほどのことはないだろう。皮膚においては、痛覚とその痛み(の感覚と感情)はあるが、それを解消した苦痛の無の皮膚は、快覚をもたず、快感という感覚や感情はもたない。もっとも、痛み解消のときは、身体は緊張・萎縮の苦痛反応を解いて弛緩の快反応をするだろうし、脳内にはおそらく快楽系のホルモン分泌等があるだろうから、その点でいえば、快であろうか。ただ、それを、痛みと違って、損傷(の解消)部分に投影しないだけというべきかも知れない。
 かりに、痛み(損傷)のない部位に快感情をいだくのだとすると、損傷のない無事の皮膚が一斉に快を感じることになる。到るところからの快感に圧倒されて、何も手につかないことになってしまうであろう。皮膚の無事の感覚・感情が無であるから落着いた生の営為は可能になっているのである。同じ皮膚での触覚とか温覚・冷覚では、快がそれ自体として感じられることがある。が、損傷の有無の、痛みとそれのない快適な状態では、快は痛みに対応するその部位の感覚を有さない。苦痛のなくなった緊張解除の弛緩状態を全心身で快と感じることはあろうが、これをその痛みのなくなった部位に投影することはない。せいぜい、痛みの緊張・萎縮等の反応の残像が残っている間だけの弛緩の自覚としての快にとどまる。くすぐると触覚が特殊なかたちで発動して快となるが、これは、苦痛の無の特殊な在り方であろう。つまり、痛みになりそうでならない痛みの無を当該の部位に触覚をもって感じ取ったものではないか。この痛みの特殊な無、くすぐったさの快のようなものが全身から湧き上がるようでは、痛み以上に苦しいことになってしまう。
 これに対して、安心の方は、皮膚の痛みの無とちがい、独立した感情として存在する。不安のない状態は、単に無ではなく、安心・安堵の感情となる。危険に対して不安・恐怖をいだいて、これに火急の対応をする。その危険がなくなった状態は、無ではあるが、意識されて安心という感情をもつ。危険がないという無は、心身の危険への緊張・萎縮の不快を解除して、それを弛緩・伸張という快の心身反応とする。快感となる。それが安心・安堵の感情である。危険について、それは、一時なくなったり、当分構えを不要にするようになるとしても、再度その危険が生じる可能性もあることであれば、それへの意識を常々もつ。原発への安全・安心は、危険が完全には消えず根底に残っていての安心である。原発が存在しない(危険の不可能、ゼロの)場合は、それへの安全も安心も存在しない。危険の可能性(不安)を踏まえていて、さしあたり、それのないという状態が安全であり安心である。その意識が、当分危険の可能性なしと判断すれば、危険は根底にあり続けているが、これをゼロとみて安全との判断をし、感情的には、安堵安心の弛緩・伸張の構えをとることになる。それも、長くなれば、その危険を思わなくなり、その段階になると皮膚の損傷の無と同じく、これを安心感情とすることもなくなる。

不安は、安心を際立たせる

2023年12月12日 | 苦痛の価値論
3-7-1. 不安は、安心を際立たせる  
 味覚での不快の苦味は美味の甘味を際立たせるが、精神的生においても、苦痛は快を際立たせる。不安があるから、安心・安堵の快が際立つ。安心に慣れたら、それへの感情はもたなくなり、安心感はことさらにはいだかない。だが、不安があると、その不安の苦痛をなくしたいと思い、それが実現できたときには、安堵・安心の感情を強く感じることになる。
 逆のばあいは、どうであろう。安心・安堵があるから、不安の苦痛をより強く感じるということが言えるであろうか。ふつうは、不安は、安心が先行するしないにかかわらず、危険の可能性を見出せば感じる苦痛である。安心があったから、ことさら不安を強く感じるということはないのではないか。安心は、続いている場合、無となる。意識して感じることがなくなる。多くの場合、その無の状態の後に不安は成立するから、安心があってその快に比して不安の不快・苦痛が大きく感じられるということはなかろう。安心を感じる状態は、まだ危険や不安の残像がある段階であろうから、危険への構えをまだ残している。したがって、安全・安心を感じているところへ不安が生起した場合は、不安を少し小さく感じることになるかも知れない。危険のない安心が続いていた場合は、安心自体を感じることがなくなり、この無は、危険・不安への構えを大きく後退させる。そこに不安が感じられるときには、むしろ、これに過剰な対応をして大きな不安を抱くことであろう。
 皮膚の痛覚刺激での苦痛とそれのない無(痛)は、もっと極端で、苦痛がない状態は、快であるというより、無感覚状態である。そこに生じる苦痛は、無に続いての刺激であり、苦痛がありのままに、増幅・縮小なしに感じられることである。逆に苦痛があって、とげが刺さったり、火傷しそうな強い熱への痛みがあって、これがなくなった場合、緊張を解き、快を抱く。苦痛があることで、その無が、苦痛の残像がある限りで、快となる。苦痛は、苦痛がないという快を際立たせる。だが、皮膚の快自体が苦痛を際立たせることは一般的ではなかろう。皮膚は、何もなければ、無感覚・無感情状態になる。仮に、皮膚の良好な状態自体に快をいだくのだとすると、全身から快が沸き起こって手が付けられなくなることであろう。順調であれば、皮膚の快などは無となって、損傷を受け不調になったところのみが、警告の苦痛を発すればよいのである。そういうところでの快は、不快・苦痛が消失したことを知らせる消極的なものであり、苦痛のない状態がそれ自体で快と感じられるものではなかろう。皮膚には、痛覚はあっても快覚は存在しない。快との対比においてではなく、皮膚の痛みは、(感覚・感情の)無の状態から生じるのである。
 不安・安心の感情は、皮膚の苦痛感情と類似的で、安心(快)だけでは存在せず、不快感情の不安があって、これがなくなるということで、不安の苦痛が安心をもたらす。安心が定着したら、皮膚の損傷(苦痛)消滅の安堵と同じように、安心感情自体も消える。不安という苦痛感情は、安心を切実に求め、これが可能になるところでは安心感情を強く感じさせる。逆の安心感情があるところでは、危険・不安の残像があっての安心だから、不安・危険への構えを残していて、不安に対して過剰反応せず、むしろこれを小さく感じるのではないか。

苦痛は、ときに快を際立たせる価値をもつ

2023年12月05日 | 苦痛の価値論
3-7. 苦痛は、ときに快を際立たせる価値をもつ   
 苦痛・不快は、快を際立たせるために使われることがある。甘さを際立たせるために塩をつかう。美味をしっかりと出すために、それ自体は不快な苦味や酸味を加える。苦味、酸味は、それら自体は、不快なもので、強ければ苦痛となる。だが、その不快な酸味などをほどほどに感じる場合は、同時的に進行している美味が際立つ。その不快・苦痛と対比して快楽が強調されて意識されるのであろう。さらに、不快な苦みや酸味を甘みにミックスすると独特の美味(快)ともなる。
 逆に、不快な味わいが美味のものとの比較で強く感じられる場合もある。甘い食べ物と酸っぱいものとでは、食べる時、酸っぱいものを先にした方がいいという。甘味があったあとに、酸味がくると、この酸味が強く感じられ不快となる。逆であれば、酸味が甘味を引き立ててより美味しくさせる。美味しい物と不味いもの一般について、これはいえる。美味しいものを食べたあとに不味いものを食べるとそのまずさが際立つ。快が不快・苦痛を際立たせる。不味くても比較なしなら、食糧不足の時代にはよくあったことだが、空腹時だと満足できたことである。そして、のちに、美味と言われるものを口にすれば、比較して、美味が強調される。苦痛が快を際立たせる。
 寒くて苦痛のとき、暖かな部屋に入ると、快適である。寒さの不快感の残っている間、あるいは、暖かさに慣れて快でなくなるまでの間、寒さの不快感は、暖かさへの快を感じさせる。だが、暖かさを感じていても、そのことが長くなり当たり前のことになって、それが寒さの不快刺激と対立的に意識に上らない状態になっていると、快も消失する。反対に、暖かい快適な部屋から寒いところへ出ると、その寒さの苦痛が強く感じられる。対立する快不快の感情は、その対立する感情の残像があるかぎりでは、現に感じている快不快の感情をより際立たせることになる。
 精神的レベルの感情においても、対立する快不快の感情が相互を際立たせることがあろう。絶望は希望を際立たせる。戦争などの悲惨な状態で絶望的になっているときは、小さな希望でも、際立ってくる。喜び・悲しみも、並んでいたら相互を際立たせる。おみくじには凶が入れてある。みんな大吉が出るようにしていたのでは、喜びは薄れる。凶を引いたひとを見れば大吉の喜びは大きくなる。逆の凶を引いたひとも、みんなが凶ならば悲しさはさして大きくもならないであろうが、吉を引いた者を見たら、自身の凶を一層悲しく思うことになろう。 

未来の快を目指し、現在の苦に急き立てられて前進する

2023年11月28日 | 苦痛の価値論
3-6-7. 未来の快を目指し、現在の苦に急き立てられて前進する 
 苦は、人を鍛えるが、快は、人をまどろませ能力発揮の機会もうばうと言われる。だが、快がそうなるのは、これにのめりこみ現をぬかすことになるからで、快も持ち方しだいでは、大いに有用となる。
 快・不快(苦)は生の原動力で、動物はもちろん人も多くこれに導かれて生を営んでいる。快は、ことが首尾よく進んでいることを感じるもので、快であるようにともっていくことは、その生に好ましい状態になることである。だが、ときに快は、ひとに害悪となることがある。快が有害になるのは、その与え方、利用の仕方においてである。快は、ことがうまくいったときの褒美であり果実・報酬である。これが常時与えられ、ことを始める前に与えられたのでは、前には進まなくなる。もう報酬が得られているのであり、これを楽しみ、これにのめりこむばかりとなる。動物を調教するときは、快の餌を与えるが、それは、苦難の芸を上手にできたその褒美としてである。褒美の快につられて、難しい芸に挑戦するのである。芸をする前に快を与えたのでは、もう芸をする必要がないといっているに等しい。ひとの場合も似たものであろう。未来に快を描き、これを目指して、苦難の現在を前進させていく。未来の快、その人間世界での代表は、希望という快であろうが、希望は、いま、果実が与えられるのではない。今あるのは苦難・苦労である。だが、その苦痛を受け止めて進めるなら、一定の苦難の手段を実行したならば、未来の希望がかなえられ、快が帰結するというのである。希望は、ひとを駆り立てる力であり、いまは、それは実現されていないから、未来へと前進して、これを達成しようと努める。未来の憧れの快は、希望となって、ひとを導く。引き立てていく。未来へと先導する。未来の快は、ひとを覚醒する。その希望・快の褒美は、さきに出してはならない。快はいま与えるとこれにのめりこみ先には進まなくなる。未来に快は与えるべきである。三代目が家をつぶすのは、その現在に快が与えられるからである。逆に、苦痛は、未来に与えたのでは、これも停滞する。先には苦痛だけが待っていると思えば、現在に停滞して未来の苦痛を避けようとするだろう。  
 快は、ひとの営為を推進させるものとしては、これを未来にとっておく必要があるが、現在与えられて効果のある場合もある。苦痛が耐えがたく、その過激な苦痛に絶望して前進を諦念するようなときに、これを慰め苦痛を和らげ生気をとりもどすのに快は有用となる。苦痛は萎縮・緊張をもたらすが、快は、弛緩し伸張する反応であるから、苦痛と相殺することができる。あるいは、未来の希望も、それは、いまは快ではないが、未来の大きな快がひきつけ、想像で感情は生じうるから、その未来の快は今に感じられもし、それはひとを苦によりよく耐えさせる。戦争などの絶望状態のなかで、生き残ったのは、希望を失わない者だったと聞く。その現在の苦難を諦念せず未来を信じているものは、より大きな苦難に耐えうる。未来の希望という快が現在をも照らして、その光のもとに、絶望的な現在にあきらめることなく、耐えることが可能になる。

苦痛・苦労で、眠っている能力が覚醒する 

2023年11月21日 | 苦痛の価値論
3-6-6. 苦痛・苦労で、眠っている能力が覚醒する 
 「三代目は家をつぶす」と言われてきた。初代は、苦労して産をなす。それを見ていた二代目はこれを見習うこともあって家は守られる。だが、三代目は、生まれたときから、安楽な状態で育つので、揉まれることがなくて、甘い生き方に終始して、家を滅ぼすということである。過保護はよくないと知っているから、なるべく風雨にさらして鍛えるつもりでも、いざ危険・困難に対決という場面になると、つい手助けをしてしまう。結局あまい育て方をしてしまう。
 快適な状態にあると、それに埋没し、まどろみ、ふやけた存在になってしまう。快では、その状態で満足なのであれば、それ以上に努力などする必要がなく、すぐれた能力があってもこれを使うことがなくなる。使う機会がなければ、その能力を錆びつかせて駄目にしてしまう。身体の強化には、鍛えるべきところに負荷をかけていく。筋肉は使わないと弱体化してしまい、逆に、使って痛めつけるなら、その必要に応じて、強くなっていく。同じように、精神的世界でも、苦労し苦痛が与えられることで、鍛えられていく。ひとの適応能力は高く、困難に出会えば、それに見合うだけの力が発揮されていく。もちろん、過剰な苦痛・負荷は、身体を傷めて台無しにすることもある。絶望・不安に押しつぶされるようなことになる場合もある。しかし、身体とちがい、精神世界では、かなり融通がきき、どんな逆境であっても、思いよう次第ということがかなりあって(悲惨・絶望も、比較対象を変え、心機一転、生きる場を変えれば、多くの場合、消去できる)、これを耐える工夫さえできれば、もてる能力を発揮し、必要に応じて新規の能力も獲得していける。盲目の人が、聴覚を頼りにする以外なくて、風の音とか反響音をもって、周囲の状況をまるでレーダーでするように把握する能力を獲得することがあるという。精神的世界では、苦痛・苦労は、感じるものの姿勢如何で、かなり軽減もできることで、大方の苦労は耐えることができ、苦労するほどに、最後まであきらめないならば、大成できる度合いが大きくなる。
 快の状態では、それに充足しまどろむことになるから、自身の有している創造的な能力など気づくこともない。それが発揮されるのは、困難な状況になってこれを乗り越えていくべき状態になってである。そこにおいて、自身の強さも弱さも明白になる。自身の固有性にも目覚めることになる。必要に応じて、その弱さを克服することもあろうし、その持前の力をより大きくしていくことも可能となる。苦痛・困難さがその能力発揮へと自身を導いていくことになる。苦労には、慣れる。したがって、ある程度慣れてきたら、一層の苦労・苦痛を背負えるように強くもなる。快は、ひとをなまくらにするが、苦痛・苦労は、ひとを鍛え、より強くしていく。
 困難・苦労は、ひとを目覚めさせ強くしていくが、これは個人にとどまらず、社会全体・集団においても似たことが言える。苦難に出会って、目覚めて、文明は進展する。時代が人を造るとよくいう。幕末の内憂外患は、日本人を目覚めさせ近代化をもたらした。