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農民の世界歴史(連載第46回)

2017-06-05 | 〆農民の世界歴史

第四部 農業資本主義へ

第11章 農民の政治的組織化

(1)英米農民の状況

 『資本論』のマルクスは、資本主義の発達につれて農業がどのように変化するかについて、次のように予測していた。

資本主義的生産様式の大きな成果の一つは、この生産様式が一方では農業を社会の最も未発展な部分のただ経験的な機械的に伝承されるやり方から農学の意識的科学的な応用に、およそ私的所有とともに与えられている諸関係のなかで可能なかぎりで転化させるということであり、この生産様式が土地所有を一方では支配・隷属関係から完全に解放し、他方では労働条件としての土地を土地所有からも土地所有者からもまったく分離して、土地所有者にとって土地が表わしているものは、彼が彼の独占によって産業資本家すなわち借地農業者から徴収する一定の貨幣租税以外のなにものでもなくなるということであ(る)。

 この言説の前半部分、すなわち農業の科学化はそのとおりになったが、後半の借地農業形態はまだ全世界で普及しているとは言えず、発達した資本主義国を含め、土地を所有する農民による自作農が広く行なわれている。
 しかし、そうした自作農らも、押し寄せる資本主義の波の中で変化を強いられていく。その点、資本主義祖国の英国では、産業革命後、独立自営農民ヨーマンが解体され、おおむね賃金労働者に転化されていったことは以前に見た。
 農業にとどまったヨーマンは土地を集約し、大規模農業を営んだり、地主階級のジェントリーから借地して農業経営に当たるなどし、新たな資本主義的農民階級が形成された。ただ、その数は少なく、英国では農民独自の利害を代表する政治政党が結成されることはなかった。
 それに対し、自由な開拓農民によって築かれたとも言ってよい米国では事情が異なった。南北戦争後、急速な資本主義的発達の中、南部の困窮した綿花農民や中西部の小麦農民らが北部主導的な民主/共和の二大政党政のエリート政治への反発から、1891年、農民団体を基盤に人民党を立ち上げたのである。
 人民党は資本主義批判と農本主義を基本理念とし、累進課税導入、当時は間接選挙制だった上院議員選挙の直接選挙改革、基幹産業への政府規制など、当時としては急進民主主義的なマニフェストを掲げた。人民党は二大政党政の狭間で、民主・共和両党と部分協力する作戦で支持拡大を図った。
 その結果、1892年大統領選挙では、落選したものの初めて独自の候補者の擁立に成功し、19世紀末から20世紀初頭にかけて、多くの州知事や上院議員を輩出する勢いを見せた。
 これに対し、南部に浸透していた民主党は人民党の政策の多くを自らに取り込む懐柔作戦で応じ、人民党が独自候補の擁立を検討していた1896年大統領選挙では人民党との協力関係を構築し、自党のブライアン候補支持を取り付けることに成功したが、同候補は落選した。
 この選挙協力が人民党にとってはあだとなり、選挙後、人民党はすみやかに衰退に向かうことになる。最終的に1908年に解党された人民党は20年にも満たない命脈であったが、硬直した二大政党政を揺さぶる第三極として、米国政治の中にポピュリズムの潮流を起こす契機となったことはたしかである。とはいえ、米国における農民の政治的組織化は歴史的な失敗に終わったのである。

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