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「女」の世界歴史(連載第44回)

2016-08-23 | 〆「女」の世界歴史

第四章 近代化と女権

(4)アジア近代化と女権

②辛亥革命と女性
 日本の明治維新からおよそ半世紀置いて中国で勃発した辛亥革命も極めて男性主導性の強いものであったが、そうした中で異彩を放つ女性革命家が秋瑾である。
 清朝官吏の一族に生まれた秋瑾は、さる豪商子息との結婚に失敗し、単身日本へ留学した。当時の日本は孫文をリーダーとする中国革命派の海外拠点であり、秋瑾も孫文の中国同盟会に入会し、革命運動に身を投ずることとなる。
 ところが、清朝の要請を受けた明治政府による革命派取締りが厳しくなると、秋瑾は最強硬派として帰国・革命準備を主張する。しかし帰国後間もなく、武装蜂起に失敗し、清朝の鎮圧作戦により拘束、即決処刑された。そのため、4年後の辛亥革命を見ることはなかったが、すぐれた詩人でもあった彼女の死は反響を呼び、半ば伝説化される形でその後の革命運動を促進する役割を果たしたと言われる。
 31歳で刑死した秋瑾の活動期間は短かったが、女性啓発雑誌『中国女報』を創刊し、文筆を通じて女性解放にも寄与した点で、彼女は中国における近代的フェミニズムの先覚者でもあった。
 辛亥革命あるいはそこに至る革命運動の過程で秋瑾以外に目立つ女性の姿は見えず、辛亥革命成就後も、女性の権利に関して大きな成果は見られなかった。そうした中、孫文の三番目の妻宋慶齢とその二人の姉妹―いわゆる宋家三姉妹―は、それぞれ革命政府要人の妻となり、政治にも関与する新しい近代中国女性として歴史に残っている。
 三姉妹の父宋嘉樹は宣教師から実業家に転じ、新興民族資本・浙江財閥の創始者の一人となり、孫文の支援者でもあった。三姉妹は父の方針によりいずれもアメリカ留学を経験し、当地で近代教育を受けた第一世代の中国人女性たちであった。
 三姉妹のうち、後に国民政府行政院長(首相)を務める孔祥熙の妻となった靄齢は政治活動より教育・慈善活動に従事したが、真ん中の慶齢は孫文の秘書から妻となり、孫文の晩年を支えた。彼女は孫文没後、孫文が創設した国民党の幹部となった。一番下の美齢は孫文の後、国民党指導者として台頭する蒋介石の妻となり、やはり国民党幹部として強い影響力を持った。
 こうして三姉妹は、やがて始まる抗日戦争を国民党側で経験するが、三姉妹の歩みはその前後から食い違っていく。特に孫文未亡人として孫文の考えを尊重し、共産党との協力関係を主張する慶齢は蒋介石の反共クーデターに強く反対し、国共合作に奔走するが、美齢は蒋介石夫人としてぶれることなく、一貫して夫の代弁者であり続けたのである。
 結果、戦後の歩みは三者三様となる。夫とともにいち早く渡米した靄齢に対し、容共派として国共内戦後も大陸に残った慶齢は孫文未亡人としての名声を背景に、国家副主席から事実上の元首格である全人代常務委員長代行まで務め上げた。
 一方、共産党に敗れ、夫の蒋介石とともに台湾に渡った美齢は台湾総統となった夫を支えるファーストレディとして積極的に活動した。夫の死後は主としてアメリカに在住し、台湾民主化の過程で次第に影響力を喪失する中、100歳を越える長寿を全うし、2003年にアメリカで死去した。
 このように清末の新興財閥から出て、辛亥革命・抗日戦争・国共内戦を越えて生きた宗家三姉妹は、それぞれの仕方で中国近代史の女性証人と言える存在であった。


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