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「女」の世界歴史(連載第41回)

2016-08-09 | 〆「女」の世界歴史

第四章 近代化と女権

(3)近代化と女性権力者

②マダガスカルの近代女王たち
 近代女王は、欧州のみならず、アフリカの島国マダガスカルという一見予想外の場所にも出現した。マダガスカルでは、ボルネオ方面から渡来してきたアジア系集団と東アフリカからの移住集団が混ざり合いながら複数の王国が競合的に形成されていったが、18世紀末には中央高原から出たメリナ王国が最有力化し、統一国家の樹立に向かっていた。
 特に19世紀初頭に出たラダマ1世は進歩的な思想の持ち主で、軍の近代化を進めてマダガスカル全島の統一を目指すとともに、アフリカにも攻勢を強めていた西欧列強による植民地化を回避し、独立を維持するため、積極的な西欧近代化を進めた。ラダマ1世の治世は、日本より一歩先んじた明治維新のような時代であった。
 ラダマ1世が1828年に死去すると、王妃がラナヴァルナ1世として即位した。マダガスカルではメリナ王国の前身時代、16世紀に半ば伝説的な二人の女王が記録されているが、メリナ王国ではラナヴァルナ1世が初の女王である。
 彼女の登位は男性優位の伝統を変革する近代化の成果とも言えるが、ラダマ1世に世子がなかったことによる特例措置という面も強くあり、ラナヴァルナ1世は即位に当たり妃への王位継承を指示する亡夫の勅令を捏造する必要があった。
 しかし、即位後のラナヴァルナ1世は夫とは正反対の西欧断交政策を展開した。当時のマダガスカルでは、ラダマ1世の思惑に反し、アフリカへ進出する英仏の影響力が競合的に増大しており、独立を脅かしていたからである。
 そこでラナヴァルナ1世は、夫が締結した英国‐メリナ条約の破棄、キリスト教の布教禁止などの強硬策を展開し、列強の反発を招いたが、その施政方針は必ずしも全面的な反近代ではなく、近代的な知識・技術の導入や産業の育成、近代的常備軍の増強など、ラダマ1世時代の近代化政策を少なからず継承している。
 しかし一方で、悪しき慣習である強制賦役の広範な利用や、領土拡張のための戦役などは犠牲者を増やし、30年以上に及んだ彼女の治世の評判は芳しくないものだった。ラナヴァルナ1世が61年に死去すると、女王と愛人の軍士官との間の息子と推測されるラダマ2世が継承し、母王の政策を再び親西欧の方向で覆した。
 ラダマ2世は王子時代、一フランス人実業家にマダガスカルの土地や資源の独占的開発権を付与する秘密協定を結んでおり、これは後年、フランスがマダガスカルを侵略する際の口実に利用されることになる。
 ところが、ラダマ2世の政策転換に反発する国粋勢力の策動により、彼は治世わずか2年で暗殺されてしまう。その後は先例にならい、妃のラスヘリナが即位した。ラスヘリナの治世当初はラダマ2世暗殺を首謀した国粋派が実権を持ったが、間もなく開国派が盛り返した。
 ラスヘリナ女王の治世は英・米との条約締結が成り、欧米列強との関係が強化されていく過渡期であったが、68年に彼女が死去すると、続いて女王の従妹にしてラダマ2世の夫人でもあったラナヴァルナ2世が即位、さらに83年のラナヴァルナ2世死去の後は、その従妹ラナヴァルナ3世と、19世紀後半期のメリナ王国は3代連続して女王が続く欧州でも例を見ない「女王の時代」となる。
 実は「女王の時代」を通じて政府の実権を握っていたのは、三女王すべての王配兼首相の地位にあったライニライアリヴォニであった。開国派の彼が30年近く首相の座にあったこの時代のメリナ王国では、従来の絶対君主制から立憲君主制への変革が起きていた。
 しかし、ライニライアリヴォニの開国・キリスト教化政策は、英国の影響を排除するため83年から開始されたフランスの侵略戦争にメリナ王国が最終的に敗れたことで、フランスの植民地化という結果に終わった。ライニライアリヴォニは仏領アルジェリアに追放され、ラナヴァルナ3世も97年に廃位されたことで、メリナ王国最後の君主となった。
 こうして、19世紀マダガスカルの大半を占めた四人の近代女王の治世は、同時代の日本とは対照的に、鎖国政策と開国政策の間を揺れ動き、独立を維持しながら近代化を推進することに成功することなく、結果として植民地化への道を準備することとなったのである。

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「女」の世界歴史(連載第40回)

2016-08-08 | 〆「女」の世界歴史

第四章 近代化と女権

(3)近代化と女性権力者

①ヴィクトリアとイサベル
 近代化は、女性の権利という意味での女権の拡大をもたらしていくが、同時に、近代化の中で新しいタイプの女性権力者が出現する。この両現象は必ずしも直接には関連しないが、通底するものはあっただろう。
 まず近代化中心の欧州においては、市民革命を通じて、伝統的な君主制が立憲君主制へと変革されていく中で、立憲女王が出現してくる。その代表例は、19世紀の英国に見られる。
 英国では、17世紀末の名誉革命の結果、ステュアート朝内部の体制内改革の形で立憲君主制の萌芽が生まれ、オランダ人の夫ウィリアム3世と共同統治したメアリー3世、さらに、ウィリアム没後に単独女王として即位したアンと半立憲的な女王を輩出する。アン女王が継嗣なく没すると、議会はドイツ人のハノーファー選帝侯ゲオルクを招聘し、ジョージ1世として立てたが、英語を十分に話せず、英国統治にも無関心なジョージの下、結果的に立憲君主‐責任内閣制が構築されていった。
 このハノーヴァー朝子孫として、1837年に即位したのがヴィクトリアであった。ハノーヴァー王家はドイツ系ながら英王室となっていたため、女子の王位継承を排除するゲルマン伝統のサリカ法の適用は除外されており、王位継承に当たり法的な障害はなかった。
 ヴィクトリアが即位した当時の英国では、まだ議院内閣制は発達途上にあり、国王には大権が留保されていた。ただ、ヴィクトリアの即位時は18歳と若かったため、貴族出身の首相メルバーン子爵が実権を持ったが、メルバーンが辞職してからは、やはりドイツ人の王配アルバートの強い影響下に、政務を行なった。
 そのアルバートが1861年に早世すると、国王権力の弱体化が進み、次第に保守党vs自由党の二大政党政に基づく議院内閣制の仕組みが確立されていく。それに相伴って、英国は対外的な膨張を続け、大英帝国の地位を確立していくのであった。 
 自信家のヴィクトリアはしばしば気まぐれに政治に介入しようとする傾向が強かったが、英国の議会政治は女王の気まぐれに振り回されることのない程度に発達しており、ヴィクトリアは、結果として、王は君臨すれども統治しない20世紀的な象徴君主制の確立への橋渡しの役割を果たしたと言えるだろう。

 英国のヴィクトリア女王と同時代、スペインにも類似の女王イサベル2世が出現した。保守的なスペインではレコンキスタを完成させ、統一スペインを樹立した立役者のイサベル1世以来、女王は輩出されなかったため、イサベル2世は1世以来、300年ぶりの女王であった。
 イサベル2世が属したボルボン朝はフランスの近世王室であったブルボン家の支流であり、サリカ法を保守していたが、男子のなかったイサベルの父フェルナンド7世がサリカ法を廃して、女子の王位継承に道を開いていた。
 市民革命の波は保守的なスペインにも押し寄せていたが、議会制が確立されていないスペインでは保守派と自由主義派の争いが革命、クーデター、内戦という不正常な形をとることが多く、19世紀のスペインは激動の時代であった。
 そうした中、ナポレオン支配から解放された後に再即位したフェルナンド7世は絶対君主主義者として反動政治を展開したが、統治能力は乏しく、国政は混乱していた。そのフェルナンドの没後、1833年に即位したイサベルはわずか3歳だったため、生母マリア・クリスティーナが摂政として実権を持った。
 これに対し、サリカ法の復活を主張するイサベルの叔父カルロスが反乱を起こし、カルロス5世を僭称する事態となった。カルロスは保守的な教会や貴族層の支持を受け、進歩的な立憲派を支持基盤としたイサベルに対し7年近くにわたり抗争するが、最終的に休戦に至った。
 この間、37年にはスペインは憲法上立憲君主制を宣言するも、カルロス派(カルリスタ)はなお勢力を保持しており、政府内でも穏健派と急進派の対立がしばしばクーデターや独裁政治を招くなど、政情は安定しなかった。
 それに加え、43年以降親政を開始したイサベルにも気まぐれに政治介入を試みるヴィクトリアと同様の傾向が見られたが、議院内閣制が確立されていないスペインでは英国のように女王の気まぐれを制御できず、国政の混乱に拍車をかけた。
 こうした状況を見て、68年、革新派軍人がクーデターを起こし、イサベルはフランスへ脱出した。彼女は王太子への譲位を望んだが、受け入れられず、70年に退位を余儀なくされ、以後は1904年の死去までパリで亡命生活を送った。こうして、近代女王としてのイサベルはヴィクトリアとは対照的な運命をたどったのだった。

補説:オランダ近代女王
 英国のヴィクトリア時代晩期には、オランダでも近代女王が誕生する。オランダにおけるヴィクトリア女王とも呼ぶべきウィルヘルミナ女王である。ただ、1887年にサリカ法が廃止され、90年にウィルヘルミナが即位した時は10歳だったため、98年まで生母エンマ王太后が摂政として支えた。
 エンマは先王ウィレム3世の後妃だったが、夫のウィレムは元来、世襲共和制から君主制に移行するという歴史をたどったオランダの自由主義的な伝統に反して、絶対君主的な振る舞いをして評判を落としていたところ、摂政エンマはこれを軌道修正し、立憲君主制の確立に尽力したのである。
 オランダでは、ウィルヘルミナ以降、彼女の娘から孫娘へと三代100年以上にわたって連続して立憲女王が続き、特に20世紀は全面的に女王の治世一色となる世界史的にも例を見ない時代であったが、このオランダにおける「女王の世紀」については、改めて次章で見ることにする。

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軍は暴走する

2016-08-07 | 時評

軍の暴走と言えば、大日本帝国の侵略行動の代名詞のような表現であるが、同じことは日本軍部の暴走を止めたはずの米軍にも起きていた―。6日のNHK特集「決断なき原爆投下~米大統領 71年目の真実~」は、アメリカによる原爆投下の意思決定過程に関する通説を覆す衝撃の内容を伝えた。

原爆投下に関する通説とは、「原爆投下は戦争を早く終わらせ、多数の米兵の命を救うために必要だとして、当時のトルーマン大統領が慎重に決断した」というもので、トルーマン自身が後付け的に情宣し、日本でも長くそう信じられてきた。

ところが、実際には、原爆投下作戦は原爆の威力を試したい気持ちにはやる一握りの中堅軍人と協力科学者らがトルーマン大統領の頭越しに主導したもので、大統領は市街地への投下を承認しておらず、その結果としての一般市民大量殺戮の事実も事後的に知らされたのだという。

つまりは軍の暴走であり、人類史上最初の作戦に関して、アメリカご自慢の文民統制が全く機能していなかったことになる。核開発を開始したローズベルト大統領の急死を受け、副大統領から自動昇格したトルーマン大統領の統治能力の弱さも影響したのだろうが、弁解にはならない。

トルーマンは戦後の冷戦を開始した張本人でもあるが、これについても、どこまで彼の明確な施政方針に基づくものか疑わしく、冷戦とは原爆開発でライバルのソ連軍に対して優位に立った米軍主導で仕掛けられたもう一つの暴走だったという見方もできるかもしれない。

米軍の暴走が疑われる事例は、冷戦期のベトナム戦争や、冷戦後のイラク戦争に至るまで、重要な戦争においていくつも見られる。世界で最も文民統制が行き届いた民主的軍隊のモデルと目されるアメリカ合衆国軍隊にしてそんなありさまである。

中でも人類史的に重大な原爆投下作戦における米軍の暴走は、軍の文民統制という命題の幻想性を物語っている。日本の将来にとっても、改憲再軍備を急ぐことの危険性に対する警告事例として受け止める必要があると考えたい。

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9条安全保障論(連載第8回)

2016-08-06 | 〆9条安全保障論

Ⅳ 過渡的安保体制

二 過渡的自衛力論①

 9条の現在時間軸に基づく過渡的安保体制として、どのようなことが想定できるか。これが、「9条安全保障論」と題する本連載の最大の焦点であり、核心部分である。まず、大きな枠組みとなるのは、「過渡的自衛力論」である。
 「過渡的自衛力論」とは、自衛のための武力の行使とその目的を達するための非軍隊的な国家武装組織の保有を過渡的に認めるという命題である。というと、これは現実の必要性から必要最小限度の自衛武力の保持は憲法に違反しないとする政府見解その他の「現実主義」の立場と重なるように見えるかもしれないが、二つの点で大きく異なる。

 一つは過渡性という時間概念を導入する点である。これは、たとえ自衛武力の保持といえども恒久的なものではなく、未来的非武装世界が到来するまでという時間的な限定性を伴った保持であることを明確化するものである。その意味では、まさに未来時間軸を意識した現在時間軸なのである。
 もう一つは、非軍隊性という視点の明確化である。これは、9条が非軍国主義体制という過去時間軸から軍国主義の復活阻止を現在に対し課していることに由来する視点である。「現実主義」にあってはしばしばこの認識がぐらつき、ともすれば自衛隊を安易に軍隊と同一視し、そこから9条2項を排除して自衛隊を正式に軍隊化すべく改憲に結び付けようとするのが通例である。

 とはいえ、このような「過渡的自衛力論」は、9条の法文から直接に定立されるものではなく、言外の命題として、言わば不文法的に導出されるものであり、その意味でも過渡性の強い際どい解釈を強いられる。その具体的詳細は次回以降順次見ていくが、ごく簡単に概略を述べれば、次のようになる。

 1項に関して言えば、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と宣言する同項は、自衛のための武力の行使については「永久に」放棄しておらず、過渡的な留保を認めている。ただし、戦争放棄の命題から「自衛戦争」については永久に放棄していると解される。
 1項の目的を達するため、戦力の不保持と交戦権の否認を宣明する2項は、自衛のための武力の保持についてはさしあたり保留にしているが、それとて「戦力」に該当するような武装組織であってはならない。

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9条安全保障論(連載第7回)

2016-08-05 | 〆9条安全保障論

Ⅳ 過渡的安保体制

一 9条の現在位置

 前回まで、9条が指し示す未来時間軸:未来的非武装世界と過去時間軸:非軍国主義体制という二つの時制に応じた規範内容を検討してきたが、最後に現在時間軸である。現在とは、未来と過去の双方にはさまれたサンドイッチのような時間軸であって、過去を未来へ橋渡しするつなぎの過渡的な時間軸である。本連載の「9条安全保障論」という表題の焦点はここにある。
 この点、9条=非武装平和主義という平面的な把握によりつつ、これを現在的な安全保障政策の障害物と決め付け、排除しようとするのが9条改憲論の常套的思考法であるが、「9条安全保障論」はこれに対抗して、「9条に基づく現在的安全保障論」を展開しようとするところに主眼があるのである。

 その前提として9条の現在位置を再確認しておく必要がある。繰り返しになるが、現在という時間軸は未来と過去の間に挟まれたサンドイッチである。このことを忘れて、平面的な「現実主義」に陥ると、9条排除論と合流することになる。従って、9条の現在位置は、過去の軍国主義を脱しながらも、非武装の未来世界が到来するまでの過渡的時間軸である。このことが、9条安全保障論の出発点となる。
 そこで、9条安全保障論に基づく具体的な施策を縷々列挙する前に、二つの命題を片付けておく必要がある。一つは軍国主義の復活阻止、もう一つは不断の軍縮努力である。

 軍国主義の清算自体はすでに戦後の占領下で終了しているが、その後の復活阻止については相当に疑わしい。元来、日本支配層の間では戦前軍国主義への反省が希薄で、ともすれば戦前の戦争政策は侵略ならず、自衛・解放の使命を帯びていた云々といった正当化の論理が根強く残り、9条に象徴される戦後憲法は戦勝者の押し付けであるとする被害的な受け止めと痛恨の感情が今日まで受け継がれてきている。
 そのため、戦後の歴代保守政権も軍国主義の復活阻止のために意識的な取り組みをしてきたとは言えず、ともすればむしろ栄光の軍国時代を懐古するような復古勢力を取り込みつつ、曖昧な態度を取り続けてきた。そういう延長上に9条を骨抜きにする「解釈改憲」の集団的安保法制や再軍備を明確にする改憲論が準備されている。
 その流れは必ずしも直接に軍国主義そのものを復活させようとするものではないとしても、その前提に軍国主義の復活阻止という軸が置かれていないため、曖昧にぐらついており、新たな形の軍国主義を生み出す危険は大である。
 そういう危険な道に踏み込まないためにも、9条安全保障論は軍国主義の復活阻止から出発する。具体的には、軍国主義における最大のマシンであった軍の復活阻止である。従って、9条安全保障論は再軍備論ではあり得ず、軍とは異なる組織による自衛を構想する。その点、戦後日本の国家武力として定着してきた自衛隊を基本に据えた安全保障論となるが、自衛隊の実質的な軍隊化を防止するための施策も含まれなければならない。

 第二の不断の軍縮努力についても、歴代保守政権は国際社会では核廃絶を理念的に訴えつつも、自らは日米同盟に基づく「核の傘」に収まり、自国の防衛費は増大の一途という自己矛盾を年々深めている。
 9条安全保障論においては、国際社会における軍縮のリーダーシップを発揮することも重要だが、それにとどまらず、自国の自衛力の縮小とそれを可能とする恒久平和へ向けての努力、そのための脱軍事同盟外交の展開が求められる。この点についてはより具体的詳細に検討する必要があるので、最後にもう一度立ち返ってみることにしたい。

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戦後ファシズム史(連載第51回)

2016-08-03 | 〆戦後ファシズム史

第四部 現代型ファシズムの諸相 

4‐2:東欧の管理主義政権
 1980年代末から90年代初頭にかけて、社会主義体制が次々と民主革命によって崩壊していった後は、民主化運動勢力が政党化し、政権に就く例も増えた。中でも、一連の東欧革命の先駆けともなったハンガリーである。
 ハンガリーでは民主化運動を担ったのは青年層であり、そうした青年運動をベースに結党されたのが、フィデス‐ハンガリー市民同盟(以下、「フィデス」という)。フィデス(Fidesz)とはハンガリー語で「青年民主同盟」を意味する単語のアクロニムで、まさに党の沿革を示している。
 結党時から、短い中断をはさみほぼ一貫して党を率いるのは、オルバーン・ヴィクトルである。オルバーンは法律家兼社会学者にして英国で政治学も学んだ多様なバックグランドを持つ人物であるが、民主化後、早くから国会議員に転じ、98年の総選挙でフィデスを勝利に導き、首相に就任した時は35歳、当時欧州最年少の首相であった。
 フィデスは当初、旧独裁党が衣替えした社会党に対抗し、自由主義的な党として台頭したが、90年代半ばに右傾化路線に転換、第一次政権期中の2000年には、それまで属していた自由主義インターナショナルを離脱し、欧州議会における保守政党の会派である欧州人民党に所属替えし、保守党としての性格を鮮明にした。
 フィデスが内外で波紋を呼ぶほどに右傾化したのは、02年の下野後、再び政権に就いた2010年以後の第二次政権期である。首相は同じくオルバーンであるが、第二次政権では議会での絶対多数を背景に、宗教保守色濃厚で、市民的権利や憲法裁判所の権限を制約する集権的な憲法改正のほか、メディア統制法の制定などの権威主義傾向が内外の批判を浴びた。
 また折からの難民対策においても、難民の通過点とされることを防止するため、フェンスの設置や強権的な難民収容など、欧州でも最も強硬な対策を打ち出すなど、EUとの軋轢も増してきている。
 こうしたフィデス政権の性格の評価は必ずしも容易でないが、オルバーンは理想の国家として、西欧諸国より、当連載でも管理ファシズムの事例として取り上げたシンガポールやロシア、中国を挙げていることからすると、管理主義を志向していることは明らかであり、長期政権化した場合には管理ファシズムに進展する可能性も否定できない。

 同様の管理主義政権は、ポーランドにも出現している。ポーランドもまた東欧民主革命においては、ハンガリーとともに注目を集めたが、民主化運動の歴史はハンガリーよりも遡る。
 その中心にあった反体制労組「連帯」から派生した新勢力が「法と正義」(PiS:以下、「ピス」と略す)である。民主化プロセスが一段落した2001年、「連帯」の法律家でもあったヤロスワフとレフのカチンスキ双子兄弟によって創設されたピスは、当初から保守的な社会政策・家族政策を柱とする明確な右派政党として発足した。
 旧独裁党が衣替えした民主左翼連合政権が汚職問題で分裂した後、ピスは2005年の総選挙で第一党に躍進し、連立政権を樹立した。同年にレフが大統領に選出され、翌年にはヤロスワフが首相に就き、カチンスキ双子兄弟が政権を完全に制覇する結果となった。
 しかし、この第一次ピス政権は07年の総選挙では敗北、下野した。その後、10年にカチンスキ大統領が飛行機事故により不慮の死を遂げる不運にも見舞われたが、欧州への難民大量流入に直面する中で行なわれた15年の総選挙では難民受け入れ反対を公約して圧勝、再び政権与党となった。
 第二次ピス政権では首相に女性のベアタ・シドゥウォが就いたが、ピスの党首は03年以来レフ・カチンスキであり、シドゥウォ首相は傀儡に近く、実権がレフにあることは明らかである。大統領には総選挙に先立ってピスのアンジェイ・ドゥダが選出されており、再び政権をピスが独占する状態となっている。
 ハンガリーのフィデス政権とは異なり、現時点でピス政権は憲法改正に踏み切っていないが、憲法裁判所人事に介入、判事をピス寄りで固めて違憲訴訟を抑制するなど、権威主義的な政権運営が目立ち、「フィデス化」の懸念が内外で強まっている。フィデスともども、東欧における「ファッショ化要警戒現象」として注視される。

 ちなみに、ハンガリーにはヨッビク-より良いハンガリーのための運動(略称ヨッビク)を称する明白にファシズムの特徴を帯びた議会政党が存在するが、少数野党にとどまっている。同様に、ポーランドには家族同盟を称するファシスト政党が存在し、同党は06年から07年までピスと連立政権を形成したが、07年総選挙で議席を喪失した。

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戦後ファシズム史(連載第50回)

2016-08-02 | 〆戦後ファシズム史

第四部 現代型ファシズムの諸相

4‐1:オーストリアの戦後ファシズム
 ヒトラーの出身国でもあるオーストリアは、戦前1938年のナチスドイツによる併合により、終戦までナチスドイツの一部であったが、強いられたナチス体制であったため、ドイツ本国に比べ、その戦後処理は曖昧で、戦犯の処罰も一部にとどまっていた。
 そうした中、連合国による占領解除の翌年1956年に結党されたのが、オーストリア自由党(以下、自由党という)である。党名はリベラル風に見えるが、その実態はナチスの後身とも言えるもので、初代党首アントン・ライントハラーは元ナチ党員かつ親衛隊幹部の履歴を持つ人物であった。
 自由党は結党の年の選挙で早くも国会に議席を獲得するが、議席数一桁乃至十程度の少数野党の時代が1980年代まで続く。それでも、この間、保革二大政党政の狭間で70年代と80年代に一度ずつ、左派の社会民主党政権に連立参加したように、80年代までの自由党は穏健化し、あえて左派に接近することで、党勢を維持していた。
 この状況が大きく変わるのは、86年にイェルク・ハイダーが党首に就任してからである。ハイダーは同党では初の戦後生まれの党首だったが、両親が熱烈なナチス支持者という家庭に育ち、自身もしばしばナチ賛美を公然と行い、波紋を呼ぶ人物であった。
 ハイダーの指導下で、自由党は本来のファシズム志向を強めたが、彼のスローガンは「オーストリア第一」の国粋主義であり、そこから反移民政策を党の目玉政策に掲げるようになった。その点で、ハイダー指導下の自由党は欧州の反移民国粋主義の先駆けであった。
 ハイダー自由党は労働者階級にも支持を広げる戦略で急速に躍進し、1999年の総選挙では党史上最高の52議席を獲得、翌年発足した右派国民党政権に連立参加した。これは二党の議席が同数という対等連立であったため、自由党の発言力の増大が見込まれた。
 ハイダー自身は南部のケルンテン州知事の地位にあり、入閣しなかったが、自由党の連立参加に対し、オーストリアのファッショ化を恐れた欧州各国は重大な懸念を示し、欧州連合(EU)加盟14か国がオーストリア制裁に動く事態となった。
 その結果、ハイダーはいったん党首を辞任し、連立政権の主導権も国民党が取ったことで、自由党色は薄められることとなった。続く02年総選挙で自由党は大幅に後退、05年には党内対立からハイダーが離党して新党「未来同盟」を結党し、改めて連立政権に参加した。
 ハイダーは引き続き、州知事の立場で政権外部にあったが、08年の総選挙で未来同盟が躍進した直後、交通事故死した。ハイダーの急死により未来同盟は党勢を失い、13年総選挙で全議席を喪失した。
 一方、分裂後の自由党は歯科技工士出身で、かつてはハイダー側近でもあったハインツ‐クリスティアン・シュトラーヘ党首の安定した指導の下、党勢回復基調にあるが、政権には参加していない。 
 しかし、中東不安定化の影響から、2015年に欧州への大量難民の流入が発生したこともあり、16年の大統領選挙では厳格な移民規制と反EUを掲げる自由党のノルベルト・ホーファー候補が第一回投票で首位に立ったが、過半数に達せず、決選投票では僅差で敗れた。
 この決戦投票は自由党の申し立てを受けた憲法裁判所によって技術的な理由から無効とされたため、改めて再選挙が予定されている。オーストリア大統領は象徴的な存在ではあるが、国家元首であり、自由党がその地位を獲得することの意味は大きく、行方が注視される。

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戦後ファシズム史(連載第49回)

2016-08-01 | 〆戦後ファシズム史

第四部 現代型ファシズムの諸相

4:ファッショ化要警戒現象
 これまで見てきた現代型ファシズムは、東欧の一部を除けばそのほとんどがアジア、アフリカ地域のものであった。ファシズム発祥地である欧州地域の「本家」ファシズムは第二次世界大戦で米欧自由主義陣営に敗北・滅亡したとされている。たしかに、西欧においては、体制としてのファシズムは現時点で見られない。ただ、21世紀に入って、反移民を掲げる排外主義的な諸政党の動きが活発化している。
 これらの反移民諸政党が特に標的とする移民は、ほとんど専らアフリカ・アジアからのイスラーム教徒移民である。これは冷戦終結後、キリスト教文明圏vsイスラーム文明圏の「文明の衝突」が世界の新たな対立軸となるかに見える情勢下で、テロリズムの脅威とも絡めて、反移民論が世論においても優勢となってきたことに対応している。
 同時に、労働市場で低賃金労働力として活用される移民労働者階級と先住国民労働者階級の競合が激しくなり、職を奪われる危機感から、先住国民労働者階級が伝統的な労働者階級政党より反移民諸政党に誘引されていることも、これら諸政党の「躍進」を支えている。
 現時点では、これら反移民諸政党は大雑把に「極右」と総称されているが、近年は超国家連合としての欧州連合(EU)に反発し、国家主権の回復とEU脱退を呼号する傾向も強めており、国粋主義傾向を帯び始めている。
 こうした反移民国粋諸政党の多くはいまだ野党にとどまっているが、一部は保守系大政党と連立する形で政権参加も果たし、その影響は近年西欧で相次ぐイスラーム国が煽動するテロリズムの脅威に反応する形で、確実に浸透しつつある。
 これに対し、親ソ連圏だった東欧諸国でも、西欧とはやや異なる態様ではあるが、東欧民主革命を主導した諸政党が変節する形で、移民管理や治安強化を旗印とする権威主義的な政党が台頭し、ハンガリーやポーランドでは政権与党に就くまでになっている(後述)。
 こうした反移民国粋諸政党の浸透状況を欧州全体で見渡すと、現時点では地域的な偏差が見られ、基本的にはフランスやオーストリア、ハンガリー、ポーランドといった元来保守的なカトリック系諸国で活発と言える。
 オーストリアでは沿革上も旧ナチス支持者らを中心に1950年代に結党されたオーストリア自由党が2000年から連立政権に参加し、周辺諸国の制裁を招く事態となった(後述)。
 またフランスでは比較的歴史が古い国民戦線の活動が活発化しており、2002年大統領選挙では創設者ジャン‐マリー・ル・ペンが第一回投票で次点につけ、決選投票に進む勢いを見せた。フランスで大規模テロが相次ぐ中、17年予定の大統領選でも現党首で創設者の娘マリーヌ・ル・ペンの立候補が確実視され、その得票率と当選可能性に注目が集まっている。 
 これに対し、プロテスタント系諸国では反移民国粋諸政党の動きは目立たなかったところ、デンマークで国民党が01年から10年にかけて、さらに15年以降、保守政権への閣外協力の形で欧州でも最も厳格な移民規制策の導入に関与している。スウェーデンでも民主党が10年総選挙で初の議席獲得を果たし、14年総選挙では第三党に躍進、またノルウェーでは進歩党が13年以来、連立政権に参加、オランダでは自由党が10年から12年まで連立政権に閣外協力している。
 ドイツでは反ナチス政策もあり、反移民国粋政党は国政進出が困難な状況にあるが、近年、非政党の形態で浸透しているのが「西洋のイスラム化に反対する欧州愛国者」(ペギーダ)を名乗る団体である。同団体は州議会レベルの右派政党に浸透して、影響力を拡大していると見られる。
 これら欧州の反移民国粋諸政党は、現時点では党名やイデオロギーも雑多で、まとまっておらず、東欧の一部を除けば、政権与党にも就いていないが、将来、政権与党化の流れが生じれば、議会制ファシズム型の現代的な管理ファシズムへ進展することも想定され、今後の動向を警戒的に注視する必要がある。
 その意味で、これらの現象はファシズムそのものではなく、「ファッショ化要警戒現象」として把握することが適切かと思われる。類似の「ファッショ化要警戒現象」は、欧州の枠を超え、一種の周辺現象として、トルコ、日本、さらに米国に至る親欧諸国でも観察されるので、これらの事例についても後述する。

[追記1]
2017年フランス大統領選挙で、ル・ペン候補は中道派の若手マクロン候補に次ぐ次点に終わり、決選投票でも大差で敗れ、政権獲得はならなかった。

[追記2]
ドイツでは、2017年総選挙で、上掲ペギータとも結びつきのある反移民政党・ドイツのための選択肢が第三党に躍進した。さらに、2018年スウェーデン総選挙でも上掲民主党が第三党としてさらに議席増を達成した。これらの政党が共通して志向する反移民の実態はほぼイコールイスラーム系移民の排斥を含意する反イスラーム主義である。かつての欧州ファシズムの旗印だった反ユダヤ主義の位置に反イスラーム主義が座ったとも言えるだろう。

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