ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

「女」の世界歴史(連載第43回)

2016-08-22 | 〆「女」の世界歴史

第四章 近代化と女権

(4)アジア近代化と女性

①明治維新と女性
 アジア近代化の先駆けともなった日本の明治維新の知られざる特徴は、徹頭徹尾男性陣によって実行されたということである。それほどに維新側で女性の姿は見えない。むしろ、女性の姿は会津戦争を会津藩側で戦った婦女隊の女性たちや、同じく会津藩側で戦い、後に同志社創立者・新島襄の妻となる山本八重のように、旧体制保守の側で見られた。
 このことは、封建的な幕藩体制の中でも武士階級の女性たちは差別されつつもそれなりに自己の「居場所」を見出していたため、浪人のような形で体制からはみ出す者もいた男性に比べ、ある意味では旧体制の保守に利害を持っていたことを示している。
 明治維新の主役となったのは、旧幕藩体制下では閉塞させられる立場にあった西日本外様藩の下級青年武士たちであった。かれらが維新成就後には「明治の元勲」として権勢を張ることになるわけだが、彼らの多くは正妻のほかに妾を持ち、その点では一夫多妻の旧大名と変わりなかった。
 とはいえ、明治維新では女性の通行の自由を妨げていた関所の撤廃や、多分にして形だけとはいえ芸娼妓解放令などの部分的な女性解放も実現したほか、黒田清隆のように女子教育の意義を認め、女子留学生の米国派遣を計らう要人もいた。
 この時に派遣された五人の女子のうち、二人は病気等の理由で脱落したが、津田梅子、山川捨松、永井繁子の三人は米国で学び、帰国した後、それぞれの仕方で近代的女子教育に携わる先覚者となった。
 こうした体制内化された近代女性とは別途、反体制的な自由民権運動に参加する女性も現れた。その先駆けは高知県で女性参政権を主張した楠瀬喜多かもしれない。
 彼女は維新前、土佐藩士の妻だったが、夫との死別後、納税者たる戸主となったのに県の区会議員選挙で女性に投票を認めないのは不当だとし、一人で請願を続けた結果、政府が1880年の区町村会法で各区町村会に選挙規則制定権を認めたことで、彼女の区では女性(戸主のみ)の投票権が認められることになった。
 これは地方の一地区とはいえ、当時は世界的にも画期的な女性参政権の実現であったが、政府はわずか4年後の84年、一転して区町村会の選挙規則制定権を廃止し、女性参政権も否定されたため、この先駆的な女性参政権の実験は短命に終わった。しかし参政権運動から自由民権運動に身を投じた喜多自身は明治を越えて大正時代まで長寿を保ち、「民権ばあさん」の異名を取ることとなった。
 喜多より若い世代からは、より本格的な民権運動家女性も出現する。後に衆議院議長ともなる中島信行の妻・中島湘煙(岸田俊子)は夫も幹部を務めた自由党の同伴者となり、女権拡大の論陣を張る演説家として活動した。
 彼女の演説に触発され、民権運動家となったのが福田英子であった。彼女は明治政府の民権運動弾圧の中、朝鮮の開化派と組んで朝鮮の地で立憲革命を起こすことを計画した大阪事件に連座して投獄されるなど、闘士的な一面があった。
 大阪事件から5年後の1890年、明治政府は集会及政社法を公布して、女性が政治集会や結社に参加することを含め、女性の政治活動を全面的に禁止し、女性に対する政治的抑圧を強化した。この施策は、政府が女性の政治的覚醒を恐れていたことを示している。
 こうした女性抑圧策の一方、日清・日露戦争で従軍看護婦として尽力した功績から非皇族女性として初の受勲者となった新島八重や、幕末の尊皇攘夷運動家で、義和団事件の前線視察をきっかけに女性の戦争協力組織となる愛国婦人会を設立し、やはり受勲者となった奥村五百子のように、富国強兵策に協力する形で地位を認められる女性も現れるのである。


コメント    この記事についてブログを書く
« 9条安全保障論(連載第12回) | トップ | 「女」の世界歴史(連載第4... »

コメントを投稿